公明党の前身・公明政治連盟の結成は1962年。そのさらに前史として、54年に設置された、創価学会文化部による政治進出があった。
 文化部は、55年4月の統一地方選挙で初陣を飾った。創価学会から文化部員として立候補した54人のうち、市議選で1名が落選した以外は、全員が当選した。
 そして、翌56年(昭和31年)7月の参院通常選挙で、文化部は初の国政選挙に挑戦。全国区の2名と大阪地方区の白木義一郎が当選。
 大阪地方区の創価学会員は、当時わずか3万世帯ほどでしかなかった。にもかかわらず、白木は実に21万8,915票を獲得。社会党現職や自民党元職の候補を破り、3位当選(定数3)を果たした。それは、新聞が「”まさかが実現”」(同年7月9日付「朝日」大阪本社版 夕刊)との見出しで報じたほど、誰もが驚く奇跡的な勝利だった。
 では、なぜその「”まさか”が実現」を成し遂げることができたのか、その奇跡的勝利の淵源をたどってみたいと思う。

 戸田2代会長は、大阪地方区の支援活動の責任者に指名したのは、若き池田先生であった。当時、支援する学会の組織は、いまだ脆弱であった。まだ学会世帯が、約3万では、選挙の勝利は、とうてい望めそうもなかった。当選ラインは、20万票以上といわれていた。無謀というほかない。
 大阪地方区は、戦わずして、既に、はなはだしい劣勢に置かれていた。3万ほどの世帯は、いずれも入会の日なお浅く、幹部の育成も、やっと始まったばかりのところであった。
 戸田城聖の目には、当時の大阪の厳しい実態が、はっきりと映っていた。それを知りつつ、なおあえて断行し、その大阪の支援活動を若き池田先生に託したのである。
 もしも、池田先生の存在が、戸田会長の胸のなかで、年月とともに大きくなっていなかったとしたら、戸田会長は、この指名を口にすることさえなかったであろう。
 戸田会長は、この支援活動の指揮を、どうしても池田先生に執らせたかった。掌中の珠である池田先生に、敢えて未来への開拓の苦難の道を進ませ、その健気なる雄姿と、地涌の底力とを、戸田会長自身の没後のために
確かめておきたかったのである。戸田会長は、広宣流布の高遠な未来の一切を、池田大作という28歳の青年にかけていた。

 関西での戦いに対する、戸田会長の期待にも、池田先生は、ためらうことなく即座に応じた。
 しかし、遠大な目標と現実との間には、あまりにも懸隔がありすぎることに、気づかざるを得なかった。池田先生は、まず苦悩に沈んだのである。口には出さなかったが、いかに戦うべきかという難問が、昼となく、夜となく、池田先生自身を苛み続けた。
 池田先生が、苦しい思索のうちに悲鳴をあげようとしたとき、数々の御書の一節一節が、雲の湧くように、先生の脳裏に浮かんできた。そして、それらの御書の一節一節は、戦いの要諦は、必ずしも数にあるのではなく、少数でも、固い団結があり、そこに強盛な信力があれば、不可能をも可能にすることを、明確にして鋭く教えていた。
 日蓮大聖人の仏法が真実であるならば、末法今時の一信徒の彼にも、それが証明できない筈がない。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192p)とあるではないか。
 今、彼が頼るべきものは、御本尊と御書しかないことを、心から納得した。
 池田先生は、戸田会長の願いは、関西に盤石な常勝の組織をつくり、広宣流布の一大拠点とすることにあると、強く感じていた。池田先生は、その師の構想を実現する戦いの第一歩を踏み出すにあたって、「勝利」から逆算した。
 目的を成就するためには、なんといっても、信心を根本にした歓喜あふれる折伏・弘教によって、広宣流布への勝利の上げ潮をつくっていかなければならない。
 この歓喜ある実践のためには、御本尊に祈る信力を奮い立たせなければならない。それには、入会して日の浅い関西の学会員の間に、まず、日蓮大聖人の仏法が、いかに偉大であり、まことであるかという大確信を、みなぎらせなければならない。文証により、理証により、現証により、信心の歓喜の渦を起こさなければならない。
 彼は、幸いにして、このところ、教学部員候補の担当講師であった。
 ”そうだ!まず教学を通して、関西の愛すべき同志を励ましていこう”
 彼の脳裏に、懐かしい関西の、発心した友の顔が、幾重にも浮かんできた。
 その秋からの、彼の講義の言々句々に、強い熱情が込められたことは言うまでもない。

・・・・・・・・続く。

初の参院選