(前回)「1956年(昭和31年)参院選大阪地方区で奇跡的勝利の淵源」に続きます。
参院大阪地方区の候補者に内定した、白木義一郎は慌てていた。
意気消沈したように、「えらいことになった、どうしたらいいのだろうか」と彼は、池田先生宅に訪ねたときに胸の内を吐露している。
池田先生は・・・「いや、互いにこの世の使命を自覚して、思い切り頑張ろうよ」「どんな戦いでも、戦ってみなければわからないものだよ」
「大関西の広宣流布の基盤建設は、ぼくにとっての初陣だ。また義っちゃんは、7月の選挙に打って出る。これは義っちゃんにとっての初陣だ。共に運命の戦いだよ。生やさしい事とは思えないが、戸田先生が、『やれ』とおっしゃった。それだけで十分じゃないか」
「『臆病にては叶うべからず候』(御書1193p)だよ。腹を決めなさい。あとは一切を御本尊にお任せして、祈り切って前進してみようよ」
20万票以上といわれる当選ラインに比して、大阪地方区の会員世帯は、3万に満たない。大阪地方区は、誰が見ても、はなはだしい劣勢にあった。
白木の落選は、火を見るより明らかな計算となる。
池田先生は、関西に広宣流布の一大拠点を築くことも、また、白木が立候補する大阪地方区の参議院議員選挙の支援も、絶対に負けるわけにはいかなかった。その理由は明白であった。
”第一に、戸田先生の構想の一つを破綻させることになる。第二に、自身の広宣流布の本格的な初陣に敗れることになる。それは、使命ある生涯の挫折に通じてしまう・・・・・。いかにしても勝たねばならない。もし、これを勝利の栄冠で飾るならば、この初陣の一戦を本源として、未来のこうした戦いが勝利に通ずる道を開くことができる。所詮、勝利する以外に道はない”
当時は、わからなかったが、今にして思えば、実は、池田先生の力量の実証であり、彼の生涯を決定する一戦であった。
池田先生は、どんな辛労を重ねても、どれほどの苦難に遭遇しても、耐え忍び、目的を完遂しようと、固く一念に決めた。
彼は、たった一人であったが、既に立ちあがったのである。
・・・・・( 続く )
参院大阪地方区の候補者に内定した、白木義一郎は慌てていた。
意気消沈したように、「えらいことになった、どうしたらいいのだろうか」と彼は、池田先生宅に訪ねたときに胸の内を吐露している。
池田先生は・・・「いや、互いにこの世の使命を自覚して、思い切り頑張ろうよ」「どんな戦いでも、戦ってみなければわからないものだよ」
「大関西の広宣流布の基盤建設は、ぼくにとっての初陣だ。また義っちゃんは、7月の選挙に打って出る。これは義っちゃんにとっての初陣だ。共に運命の戦いだよ。生やさしい事とは思えないが、戸田先生が、『やれ』とおっしゃった。それだけで十分じゃないか」
「『臆病にては叶うべからず候』(御書1193p)だよ。腹を決めなさい。あとは一切を御本尊にお任せして、祈り切って前進してみようよ」
20万票以上といわれる当選ラインに比して、大阪地方区の会員世帯は、3万に満たない。大阪地方区は、誰が見ても、はなはだしい劣勢にあった。
白木の落選は、火を見るより明らかな計算となる。
池田先生は、関西に広宣流布の一大拠点を築くことも、また、白木が立候補する大阪地方区の参議院議員選挙の支援も、絶対に負けるわけにはいかなかった。その理由は明白であった。
”第一に、戸田先生の構想の一つを破綻させることになる。第二に、自身の広宣流布の本格的な初陣に敗れることになる。それは、使命ある生涯の挫折に通じてしまう・・・・・。いかにしても勝たねばならない。もし、これを勝利の栄冠で飾るならば、この初陣の一戦を本源として、未来のこうした戦いが勝利に通ずる道を開くことができる。所詮、勝利する以外に道はない”
当時は、わからなかったが、今にして思えば、実は、池田先生の力量の実証であり、彼の生涯を決定する一戦であった。
池田先生は、どんな辛労を重ねても、どれほどの苦難に遭遇しても、耐え忍び、目的を完遂しようと、固く一念に決めた。
彼は、たった一人であったが、既に立ちあがったのである。
・・・・・( 続く )