人生哲学の並木道

カテゴリ: 池田名誉会長語録

結婚とは、ある場合はあこがれの的であり、ある場合は充実した幸福の世界であり、
かと思うと、耐えきれない重荷になることもあるであろう。

結婚というのは、一般的にいえば、もう後戻りのできない出発点である。
いわば、互いの夫婦の絆というところに背水の陣をしいたわけである。
前に進まなければならない。
そして、幸せな家庭を築かなければならない。

結婚によって、生活環境はがらりと変わり、責任は重く、苦労は増える。
それが仮に夫と二人きりのささやかな生活であるにせよ、
共に、一つの家庭経済を取りしきり、食事をこしらえ、掃除や洗濯もしなければならない。
夢見るような甘い幻想しか抱いていなかった人にとっては、
現実はあまりにも厳しく、味気なく思われるかもしれない。
また、夫に対しても、結婚前は美しい面しか見えなかったものが、
何もかもさらけ出された結果、幻滅を覚えることはよくある例である。

結婚は、ある場合には二人の愛の結果であり、恋愛のゴールインかもしれないが、
それはそのまま幸福へのゴールインではない。
何しろ、今まで互いに異なった環境の中で別々に生活してきた男女が、
一つの新しい共同生活を始めるのである。
愛し合っているのだから何事も一致できると思うのは誤りであろう。
毎日毎日、実にたくさんの食い違いがあることを発見して、
驚きの連続なのに違いなかろう。

大は思想や人生観の違いから、小は食べ物の好き嫌いに至るまで、
二人の間にはいろいろな違いがあるものである。
しかも、人間は感情の動物でもあり、ちょっとした食い違いが感情の副作用になって、
思いがけない波乱になってしまうこともある。
もっとも、波乱を恐れてお互いに本心を話し合わず、
不満と不信がうっ積して、ついに破たんに陥るより、
思うことを何でも話し合うことのほうが、はるかによいと思う。

理想的な結婚は、仮に恋愛が ”美しい誤解” であったことに気がついたとしても、
互いにそれをカバーし合い、守り合っていく「理解」と「忍耐」によって、
営まれていくものであろう。

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二人が、家庭という、きわめて現実的な、共通の生活の基盤に立たない間は・・つまり、
単なる恋人同士である段階では、わがままを言っても、
それほど衝突することはないであろう。

しかし、夫婦となると、一方のエゴイズムは、必ず他方の犠牲を伴わずには成り立たない。
したがって夫婦間の愛情は、時には自らを犠牲にしてでも、
相手に尽くしていくものにならざるを得ない。

恋人の場合は、愛というものをきわめて純化された形でとらえるのに対し、
夫婦の、このように現実の生活が厳しくからんだ愛は、
ともすれば、不純なもののように見られやすい。
だが、それは浅い考え方だと、私は思う。
深い愛情に結ばれた夫婦にあっては、家庭生活という現実の一切が、
二人の愛の絆を強め、さらに深めていく複合的な糸となっていると言えまいか。

私が、献身的な愛を強調するのは、押しつけられた自己犠牲を言うのでは決してない。
献身的な愛とは、もはや犠牲ではない。むしろ自己蘇生というべきであろう。

生きがいとは、自分が自分の理性で、そこに理想を見いだし、
自分の主体的な意志で、自己の生命を燃焼させきっていけることである。
それは、あくまでも主体的なものであって、
主体性が失われれば、もはや、そこには生きがいはあり得ないだろう。

生命は、つねに完全燃焼を求めてやまない性向を持っている。
問題はいかなる理想、いかなる対象のために燃焼するかである。

夫と共に、子どものために、近隣のために、
さらに自己の使命の道に生きゆく妻は、女性として、人間として、
最も幸福であり、はた目に見るだけでも、清々しいものである。
                      (池田大作 幸福抄より抜粋)
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友人の影響は、ある時には、親よりも誰よりも強い。
いい友達、向上しようとしている人と付き合えば、自分も向上する。

鉄鋼王カーネギーは、自分のことをこう呼んでいたという。
「自分より優れたものを周りに集めた者」と。
これが彼の人生観であったのだろう。

結局、「いい友人をつくる」には、
「自分がいい友人になる」以外にない。
いい人の周りには、いい人が集まるものです。

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母の真剣な愛は、人生の重大な岐路で、必ず活きる。
困難な時であればあるほど、子に生きる力を与えずにおかない。

偉大な母であるか否かは、
「子どもを思う心」の深さ、大きさで決まる。
本当に大変なときに、子どものために何をしてあげられるかです。

母親が自信をもって、生き生きと人生を歩んでいく。
希望に向かって、朗らかに成長していく。
その輝く姿こそが、子どもに生きる原動力を与え、
子どもの素晴らしい可能性を育む ”大地” となっていくのです。

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 時代の混乱の原因の一つには、「知識」と「知恵」の混同がある。
 学んだ「知識」を何に使うか。それが「知恵」である。
「知恵」のない「知識」をいくら集めても、価値は生まれない。
習った「知識」を記憶しているだけでは観念である。
 それに対し、「知恵」は、生活であり、生きる力であり、生き抜く源泉だ。
「知恵」こそが、勝利と幸福につながる。
「知識」だけでは幸福につながらない。

 「知識」は「知恵」を生むものです。
いわば「知識」はポンプ。「知恵」はポンプによって得られる水です。
水を使えなかったら、ポンプに意味はない。
また「知識」という、ポンプなくしては、「知恵」という水も十分には得られない。

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夫婦にとって何より大切なのは、
”感謝する心”と”共通の目線”ではないかと思う。
もとは他人同士のふたりである。
一緒に生き抜いていくと決めた、いわば共同体としての
”責任”と”信頼”と”励まし合い”が、自然のうちに、心と心を結ぶ。
美しくも強い絆となっていくのではないだろうか。

真実の夫婦の在り方は単純ではない。
環境によって決まるものでもなければ、
状況によって左右されるものでもない。
富や平穏が気持ちを引き離す場合もある。
客観的には苦しみの坂のように見えても、
それが一番、ふたりを近づけた幸福の季節という場合もある。
何かあったら揺らぐという相対的な信頼ではなく、
絶対性の絆というか、真実の愛情は、
風波があるたびに、ふたりの奥深くに育っていくものである。
「喜びも悲しみも幾年月」・・・ではないだろうか。

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「学ばずは卑し」という言葉があるが

人間の人間らしさというものは、「学ぶ」ところにある

しかも今は、高度な情報化社会である

一生涯、つねに学んでいかなければ、すぐに遅れてしまう。

「一生涯、勉強」「一生涯学ぶ」

これが、これからの指導者の要件だ。


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あいさつは、はつらつとした人間性の発露であり、

伸びようとする精神の弾みである。

外交といっても人間の出会いから始まり、

それはあいさつから始まる。

大いなる友情の海原へと船出する、心の交流の門戸こそ、

あいさつにほかならない。


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