人生哲学の並木道

カテゴリ: 創価学会の歴史

 公明党の前身・公明政治連盟の結成は1962年。そのさらに前史として、54年に設置された、創価学会文化部による政治進出があった。
 文化部は、55年4月の統一地方選挙で初陣を飾った。創価学会から文化部員として立候補した54人のうち、市議選で1名が落選した以外は、全員が当選した。
 そして、翌56年(昭和31年)7月の参院通常選挙で、文化部は初の国政選挙に挑戦。全国区の2名と大阪地方区の白木義一郎が当選。
 大阪地方区の創価学会員は、当時わずか3万世帯ほどでしかなかった。にもかかわらず、白木は実に21万8,915票を獲得。社会党現職や自民党元職の候補を破り、3位当選(定数3)を果たした。それは、新聞が「”まさかが実現”」(同年7月9日付「朝日」大阪本社版 夕刊)との見出しで報じたほど、誰もが驚く奇跡的な勝利だった。
 では、なぜその「”まさか”が実現」を成し遂げることができたのか、その奇跡的勝利の淵源をたどってみたいと思う。

 戸田2代会長は、大阪地方区の支援活動の責任者に指名したのは、若き池田先生であった。当時、支援する学会の組織は、いまだ脆弱であった。まだ学会世帯が、約3万では、選挙の勝利は、とうてい望めそうもなかった。当選ラインは、20万票以上といわれていた。無謀というほかない。
 大阪地方区は、戦わずして、既に、はなはだしい劣勢に置かれていた。3万ほどの世帯は、いずれも入会の日なお浅く、幹部の育成も、やっと始まったばかりのところであった。
 戸田城聖の目には、当時の大阪の厳しい実態が、はっきりと映っていた。それを知りつつ、なおあえて断行し、その大阪の支援活動を若き池田先生に託したのである。
 もしも、池田先生の存在が、戸田会長の胸のなかで、年月とともに大きくなっていなかったとしたら、戸田会長は、この指名を口にすることさえなかったであろう。
 戸田会長は、この支援活動の指揮を、どうしても池田先生に執らせたかった。掌中の珠である池田先生に、敢えて未来への開拓の苦難の道を進ませ、その健気なる雄姿と、地涌の底力とを、戸田会長自身の没後のために
確かめておきたかったのである。戸田会長は、広宣流布の高遠な未来の一切を、池田大作という28歳の青年にかけていた。

 関西での戦いに対する、戸田会長の期待にも、池田先生は、ためらうことなく即座に応じた。
 しかし、遠大な目標と現実との間には、あまりにも懸隔がありすぎることに、気づかざるを得なかった。池田先生は、まず苦悩に沈んだのである。口には出さなかったが、いかに戦うべきかという難問が、昼となく、夜となく、池田先生自身を苛み続けた。
 池田先生が、苦しい思索のうちに悲鳴をあげようとしたとき、数々の御書の一節一節が、雲の湧くように、先生の脳裏に浮かんできた。そして、それらの御書の一節一節は、戦いの要諦は、必ずしも数にあるのではなく、少数でも、固い団結があり、そこに強盛な信力があれば、不可能をも可能にすることを、明確にして鋭く教えていた。
 日蓮大聖人の仏法が真実であるならば、末法今時の一信徒の彼にも、それが証明できない筈がない。「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192p)とあるではないか。
 今、彼が頼るべきものは、御本尊と御書しかないことを、心から納得した。
 池田先生は、戸田会長の願いは、関西に盤石な常勝の組織をつくり、広宣流布の一大拠点とすることにあると、強く感じていた。池田先生は、その師の構想を実現する戦いの第一歩を踏み出すにあたって、「勝利」から逆算した。
 目的を成就するためには、なんといっても、信心を根本にした歓喜あふれる折伏・弘教によって、広宣流布への勝利の上げ潮をつくっていかなければならない。
 この歓喜ある実践のためには、御本尊に祈る信力を奮い立たせなければならない。それには、入会して日の浅い関西の学会員の間に、まず、日蓮大聖人の仏法が、いかに偉大であり、まことであるかという大確信を、みなぎらせなければならない。文証により、理証により、現証により、信心の歓喜の渦を起こさなければならない。
 彼は、幸いにして、このところ、教学部員候補の担当講師であった。
 ”そうだ!まず教学を通して、関西の愛すべき同志を励ましていこう”
 彼の脳裏に、懐かしい関西の、発心した友の顔が、幾重にも浮かんできた。
 その秋からの、彼の講義の言々句々に、強い熱情が込められたことは言うまでもない。

・・・・・・・・続く。

初の参院選


 

 1955年(昭和30年)の秋は、創価学会の大飛躍を示す行事が、次々に続いた。
 11月3日の秋季総会は、後楽園球場で、7万余の会員が結集したこの秋季総会には、テレビをはじめ、新聞各社の記者やカメラマンも取材に来ていた。
 ところが、どうしたわけか、どの新聞も、テレビも一言の報道もしなかった。マスコミ各社は、救世の情熱に燃える幾万の庶民の大集会を、ありのままに伝えることをためらったのである。

 その背後には、創価学会の急速な台頭に怯える既成勢力から、意図的に流された悪意に満ちた学会観があったことは間違いない。
 また、彼らの判断基準に、長く権力の支配下で骨抜きにされ、堕落していた宗教界そのものに対する、批判的な眼があったことも否定できない。
 しかし、民衆に基盤を置く学会は、そうした宗教の範疇には収まりきらなかった。そこに、彼らの戸惑いがあったにちがいない。

 ある時、戸田城聖は、「マスコミが、”しまった”と思った時が、広宣流布だ」と、語ったことがある。広宣流布とは、まさに、日本社会に広く蔓延する、宗教への無知、偏見、そして隠微な悪意の誹謗の霧を払い、厳然たる実証によって、人類の太陽たる真実の仏法を、輝かせゆく戦いでもあるのだ。それはまた、御聖訓に照らして、地涌の行進を阻もうとする障魔との、熾烈な戦いになることも必定である。
ライラック

 1955年(昭和30年)11月19日のM紙に、思いがけない報道記事が載った。
公安調査庁長官という位置にある役人が、ある講演会で話をし、そのなかで、創価学会を破防法で取り締まるというようなことを言ったというのである。

注(破防法)破壊活動防止法の略。暴力主義的破壊活動を行った団体に対する規制措置を定め、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補修した法律。基本的に治安立法の一種で、1952年(昭和27年)7月に制定された。

 
戸田城聖は、これを事重大と見て、11月の本部幹部会で、この報道に言及した。
「間違いないように、一つ言っておきたいことがあります。それは、先日のM紙に、公安調査庁長官が、学会の折伏行進は破防法に引っかかるとか、ひっかけるとかいう講演をしたという記事が出ている。これは、聞き捨てならぬもので、私としては、断固たる態度で臨まざるを得ません。なぜかならば、これが事実とすると、国家の役人たるものが、真実を知らず、おかしなことを言っているからであります。
  もともと破防法成立の時には、議会で、さまざまな異論が出て紛糾し、結局、国家の組織を破壊したり、社会の秩序ある生活を破壊するものに対する法律であり、かつての共産党がとったような、暴力的行動について適用する以外には用いないということを、この法の精神として、辛うじて通過したものであります」
 最近の、創価学会に対する悪意に満ちたデマ記事の氾濫に眩惑され、政府当局者までが、悪辣な策略に乗せられつつあると感じられた。
 その背景については、推察の域を出ないが、戸田にとっては、これほど心外なことはなかった。

 彼は、激しい口調で言った。
 「わが創価学会が、いつ、どこで、国家の組織を破壊したか。社会の秩序を破壊したか、新聞や雑誌が、正しく認識もしないままに、暴力宗教であるとか、神棚や仏壇を焼いたとか、壊したとか、そうした一方的で独断的な記事を報道しているにすぎない。創価学会は、布教において暴力を用いることなど断じてないし、また、神棚や仏壇を壊せとか、焼けとかいった指導は、今まで、一度たりともしたことはない。これは、皆さんもよくご承知の通りです。
 一部の無認識な報道に動かされて、破防法だなどと、とんでもないことを言っているのが事実とすれば、今の役人は困ったものです」

 しかし、同時に戸田は、世間の非難の根拠となっている誤解について、この際、はっきりしておかなければならないと思った。そして、彼は、愛すべき会員に、謗法払いに関する注意を促した。

注(謗法払い)創価学会に入会する際、過去に信仰していた対象物を取り除くこと。入会者自身の意思で、本人が処分することになっている。

 
「この際、振り返って、われわれも留意しなければなりません。折伏の仕方、謗法払いの仕方に、こちらの行き過ぎも、一部にはあるのではないかと思う。仏壇を焼くようなことはしないでしょうが、問題は神棚だ。しかし、何も棚を壊さなくてもよい。棚の上にあるものさえ取ればよい。それを取るのも、『あなたが自分の意思で取りなさい』と言って、こちらが手助けしない方がよい。
 それを、しつこく、『あなたが取らなければ、私が取ってあげよう』などとやるようなことは、なかったかどうか。そういう謗法払いの仕方は間違いです。また、ご主人の承諾なくして、奥さんにやらせたりするのも問題です。そのところを、よくよく注意してください」
 戸田は、破防法の問題にさっそく手を打った。彼の年来の親しい友人であり、元衆議院議員の弁護士・小沢清をして、公安調査庁長官に面談させ、その真偽をただしたのである。

 12月2日午前、小沢弁護士は、公安調査庁で長官に詰問した。
 長官の言明によると、創価学会に触れたことは一言もない。もし、あるとするなら、テープでも何でも持ってきてほしいということであった。
すると、M紙の恐るべき誤報といわなければならない。

 創価学会は、同新聞社に抗議した。
 渉外部長であった山本伸一は、紙面の担当者に面会した。新聞社は非を認めて謝罪し、12月14日の同新聞に、事実無根であった旨の訂正記事が掲載され、一か月を経て落着した。

 だが、悪意のある誤報というものが、これで後を絶つというには、いたらなかった。創価学会の使命と目的が、いよいよ明らかな実証をもって現れる時、その前進を妨げようとする魔の働きも、思いもかけぬところから、火の手をあげるようになったのである。

パームサンダー


本当の日本の国の平和と安泰を思う時、政治の分野では衆議院にも参議員にも、真に民衆のために体を張っていく妙法の使徒が、数多く輩出されなければならない。
これは、教育の分野にも、また芸術や科学といった世界にも通ずることである。
政治のための政治をするのではない、あくまでも日本の民衆の福祉のために戦う。政治は、そのための一つの手段である。

政治には政党がある。それぞれ民衆に日常生活の幸福を与えようとするための政党であると思う。
願わくは、名実ともに、そうであってほしいと思う。
戸田先生が、政治の世界に候補者を立てたのは、政治的野心に基づくものではなく、ひとえに民衆の幸福と、社会の平和、繁栄を願う一念より発したものである。
つまり、創価学会が政治化したのではなく、その念願を達成するための一分野にすぎぬというのである。
この戸田先生の思いは、この当時の学会員には、深刻にして正鵠を射た理解を得るには遠かったにちがいない。まして、一般世間の人々にとっては、さらに、なんのことやら、わからなかったであろう。

民衆の物心両面にわたる幸福について、その責任を自らに課した戸田先生は、政治の病根を深く洞察していた。彼がこよなく愛した民衆は、相も変わらず政治の重圧に喘いでいる。それがまぎれもない現実であった。

私利に走り、党略に没頭して、権力の争奪に専念する政治家たち。そのような政治家の徒党集団と化していく政党。
そして政治から置き去りにされ、その犠牲となるのは、常に民衆である。
戸田先生は、民衆の怒りを肌で知っていた。
しかし、権力悪の根源を見抜いていた戸田は、民衆の怒りを、直接、政治勢力化して行動を起こしたとしても、それだけでは、真の民衆のための政治の根本的な変革からは、程遠いことも承知していた。
戸田城聖の醒めた心は、彼の半生の結論として、政治の世界に巣くう権力の魔性の存在を、疑うことができなかった。
本来、民衆の平和と幸福に奉仕すべき政治が、いつの間にか民衆を苦しめる魔力と化していく・・・その現実を鋭く見抜いていた戸田にとって、政治の根底的な変革とは、魔性との戦いにこそ、その焦点があることは明白であった。
一つの政治権力が打倒され、新たな別の政治権力が登場しても、その魔性は消滅しないことも、戸田は知っていたのである。

19世紀から20世紀にかけ、世界では、さまざまな政治体制の国々が生まれた。
しかし、依然として民衆は、政治権力の魔性から解放されたとは言い難い。どう政治体制が変わっても、いつしか民衆を苦しめる魔性に支配されていく、その愚かな権力の流転の歴史を、戸田は思わずにはいられなかった。
この途方もない愚劣さからの脱出・・・それこそ、民衆が心底から渇望しているものであろう。
それは、もはや政治の次元で解決のつく問題ではないのだ。
戸田は、早くから、こうした問題の本質を、明らかに洞察していたのである。

民衆の平和と幸福のためになるのであれば、どんな政治形態であっても差支えないだろう。
戸田は、政治形態を批判していたのではない。政治そのものに巣くう魔力が、問題の焦点であった。
それは、政治権力を握った者、政治化の内にこそ潜んでいることは理の当然である。
魔は、自由主義体制や社会主義体制に潜んでいるのではない。
それらを支えている政治家、その人間の内部に巣くう魔の力が、それらの体制をむしばんでいることを、戸田は問題の帰結としたのである。

すべての人間は、十界を具しているとする仏法の真理に照らすとき、魔の正体は初めて明らかになる。
政治権力の魔性も、人間生命に焦点を合わせたとき、発生の根拠を初めて知ることができる。

世間の人々は、この事実に全く気付いてはいない。そればかりでなく、仏法の原理をもって迫っても、耳さえ貸そうとしない。そして、今も権力をめぐる争いの中で、多くの民衆は、いたずらに犠牲となっているだけだ。
これ以上の人類の愚行はないはずだ。しかも愚行の歴史は数千年にわたっている。

メキシコ



文化部設置という、この新しい展開に示された戸田先生の構想は、最初から人類の文化活動全般に向けられていた。
それは、人間の幸福の実現をめざす日蓮大聖人の仏法の実践展開として、必然的なことであった。
したがって、文化部の活動は、政治の分野に限られるものではない。
もっと広範な社会的分野における活動が、意図されていたのである。
創価学会の存在を際立たせているものは、日蓮大聖人の仏法の唯一の正統派として、広宣流布を掲げ、立正安国をめざす実践活動に尽きるのである。
この実践活動は即、一人の人間に人間革命をもたらす実戦でもあった。
自らの生命を革命したといっても、社会に生きる一社会人であることには変わりはない。
その一人ひとりが、社会建設の新しい力を発揮していくはずである。
そして、この慈悲の哲理を掲げた運動の波動は波動を呼び、やがて社会のあらゆる分野を潤していくことになるのも確かなことだ。
いかにそれが、遠い道のりに思われようと、他に確実な方途がない以上、確信のあるこの道を、まっしぐらに進むよりほかに使命の完遂はない。
戸田城聖は、広宣流布の遥かなる道程をつぶさに思いつつ、文化部の手塩にかけた要員をもって、社会を覚醒させる第一歩を踏み出したことに、油断のない配慮を、あらためて重ねなければならなかった。

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昭和29年の秋ごろから、戸田先生の思索には、彼をとらえて離さぬ大きな構想があった。
その構想は、彼の頭のなかで、重苦しいまでに膠着して、深く根を張り、
いつか新鮮な芽となって萌え始めていた。

その構想とは、広宣流布の伸展にともなう段階において、
いつかは展開しなければならない新しい展望への実践であった。
彼は、この実践を、今、踏み切るべきか、
それとも先に延ばすかという決断に、自ら迫られていた。

” 時は来ている ”
彼は、ある時、決然と思った。

” いや、次期尚早だ、まだ十八万世帯にすぎぬではないか。慎重を期すべきだ・・・ ”
戸田城聖は、深い思いに沈んだ。

彼は、統監部長に命じて、全国の学会員の詳細な分布図を作成させた。
東京都を中心とした関東地方が、最も色濃く染められていた。
それから東北地方の仙台と秋田、北海道の函館、関西の堺、九州の八女などが、
比較的に学会員の密集地帯であることが判然とした。

それから彼は、前回の全国地方統一選挙の詳細なデータを取り寄せて、
統監部の手によって全国学会員の分布表と照合させてみた。
概略の照合ではあったが、全国数十カ所にわたって丸印がついた。
丸印というのは、その地域で、もしも、学会員のなかで適当な人物が地方選挙に立候補し、その人物のために、その地域の学会員が応援したとしたら、
当選圏に入る可能性を含む箇所のことであった。
このような地域が、いつかできていたのである。
状況はまさに、彼に決断を、ひそかに迫っているといってよかった。

広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。
御本尊を受持して信心に励んだ人は、
まず、人間として自己自身を革命するのは当然のことだ。
革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。
このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。
いや、地域社会ばかりではない。
それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。

政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。
それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、
来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
これが妙法の広宣流布の活動というものだと、戸田城聖は、心に期していた。

彼は、しばしば、このような展望を、率直に人びとに語ったが、
聞く人は、それを、ただ夢のように聞いていた。

だが、彼が会長に就任して、本格的な広宣流布の活動を始めてから、
わずか4年にして、彼の展望の若芽が、すでに萌え始めていたのである。

そこで戸田は、まず、1954年(昭和29年)11月22日、文化部の設置を発表した。
戸田は、さまざまなデータを検討し、構想を練った。
そして、その構想の若芽を放置して枯らすことなく、育ててみようと、彼は決意したのである。
厳密な調査が進むと、創価学会員の全国分布図の上に、丸印は四十カ所余りにも達した。
意外な数である。
「ほう、こんなにあったか。あとは人の問題だな。私利私欲に目もくれない高潔な人材がいればいいわけだ」

活躍の場はある。しかし、人がいない。
文化部の前途は、まことに暗澹たるものだ。

人選の作業は、厳正な比較対照にカギがある。
私心や感情を去って、あくまでも目的に適った候補者は誰だろうと考える時、
幾人もの候補者を比較しているうちに、やがて適任者が浮かび上がってくる。
事は急を要した。
30年の4月に入れば、統一地方選挙が始まる。

各地域における人選も徐々に固まり、54人の文化部員の任命が、
昭和30年2月9日夜、本部2階広間で行われた。

新たな展開である。
戸田城聖は、まだ力は未知数の54人の文化部員を前にして、その出立を激励した。
言葉は短かったが、彼の万感が込められていた。

「真実の仏法を実践する人は、その資質を活かし、必然的に、社会にその翼を伸ばすことになる。いよいよ時が来たんです。諸君は、妙法を胸に抱きしめた文化部員であることを、いつ、いかなるところにあっても、忘れてはなりません。民衆のなかに生き、民衆のために戦い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望しているんだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している。立派に戦いなさい。私は、何があっても応援しよう。今後、どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生き抜いていきなさい。ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!」

新しい分野に巣立つ54人の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。
それは、激励とも思われたが、また、新しい門出への惜別の言葉とも響いた。
彼らは、二か月先に迫る初陣を思い、不安と焦慮のなかにあった。
しかし、戸田が、これまで厳愛を持って自分たちを育んでくれたのは、
「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451p)であったことを、
しみじみと悟のであった。
彼らは、断じて戸田の期待にこたえようと、こぶしを握り締めて心に誓ったのである。
そして、勇んで厳冬の街に出ていった。

それから一カ月過ぎた3月8日、文化部員13人の追加任命があった。
これは、現職の教育者や、経済人で、長年にわたって、戸田の膝下で薫陶を受けてきた幹部たちであった。
第二次の文化部員の任命は、教育界や経済界に対する、戸田城聖の最初の布石といってよかった。

もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。
日蓮大聖人の仏法が、行き詰った現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、
この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。
社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、
水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、
政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、
ほとんどいなかったといってよい。
戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、
歓喜するにすぎなかった。

そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた池田先生だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの心労を、戸田とともに分かち合っていたのである。
構想が未聞であっただけに、辛労の質もまた未聞であった。

文化部の活動に踏み出した、この最初の一歩は、まさに歴史的にも、画期的な第一歩であったといってよい。

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それは、わずか数分の演説であった。

1957年(昭和32年9月8日)、横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」。
戸田第二代会長は、5万人の聴衆に訴えた。

戸田先生

「・・・・われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります・・・・」

核兵器を絶対悪と断じたこの宣言は、世界に広がる創価学会の平和運動の原点となった。
当時世界では、東西冷戦の激化に伴う、熾烈な核軍拡競争が行われていた。
核戦争による世界の破滅が、現実的な脅威として認識されはじめていた。
戸田はこうした世界の動向を見つめつつ、宣言の構想を練っていたのである。
それは生命の尊厳を守る、仏法者としての決意からであった。
戸田は折あるごとに思索を重ねた。
人類の自殺行為ともいうべき核軍拡競争、その愚行を正統化しているものは何か?
それは、核兵器が戦争の抑止力となり、平和が保たれるという核抑止論である。
ではその抑止論をもたらしているものは何か?
それは、核戦争になれば互いに共倒れになるから、戦争はできないという考え方に始まっている。
しかし、これは人間の恐怖のうえに成り立っており、
際限のない核軍拡競争という悪魔の迷路に導くものであり、
その思考自体が、人間精神の悪魔的産物ではないか!
戸田は政治の次元でも、技術的次元でもなく、人間生命の根底の次元から、
核兵器の奥に隠された、生命の魔性という見えざる敵を暴いたのである。
核兵器は人類の生存の権利を脅かす兵器である。
であるならば、核兵器を「絶対悪」と断ずる以外にない。
この思いを戸田は宣言として発表、その思想を世界に広めることを、
将来を担う青年たちへの第一の遺訓としたのである。

世界の民衆の生存を踏みにじる権利が、誰にあると言うのか!
もしあると言うなら、それこそ悪魔ではないか!

死刑制度に絶対反対であった、戸田第二代会長が、
あえて死刑という言葉を使ってまで、どうして「原水爆禁止」を訴えたのか。

池田名誉会長は、随筆 新・人間革命」で、恩師の思いをこう解説している。
「それは、原水爆を保有し、使用したいという人間の己心の魔性それ自体に、朽ちざる楔を打ち込むためであった。
 原水爆を『絶対悪』として断罪する思想を、いわば『防非止悪』の堤防として、人類の胸中深くに打ち立てようとされたのである。
 『生』を守るために、その対極の『死』という言葉で、サタンの魔性の働きを砕きつくさんと・・・。生命厳護という絶対の正義を実現する、信念の行動であったのだ」

戸田会長の真意を、この時、どれだけの聴衆が知りえただろう。
まして当時、世間から、この言葉が顧みられることは少しもなかった。

この時、宣言の思想を全世界に広めるために生涯を捧げようと誓った一人の青年がいた。
青年は、時を待ち時を作り、一歩また一歩と世界に対話を広げ、平和の連帯を結んでいった。
それは平坦な道ではなく、むしろ茨の道であったといってよい。
核廃絶などできるはずがない! 嘲るような冷笑があった。
核兵器の必要性を否定するのか! 悪意の攻撃があった。
しかし、青年は決して屈しなかった。
恩師の遺訓を胸に深く刻み、今日に至るまで平和へのたゆみなき行動を続けてきたのが池田名誉会長です。
原水爆禁止宣言から11年後(1968年)の9月8日に、中国との国交回復を訴える「日中国交正常化提言」を発表。

周恩来総理と
<中国・周恩来総理と>

さらに6年後(1974年)のこの日には「宗教者がなぜ宗教否定の共産主義の国へ行くのか」との批判をものともせず、初のソ連訪問の旅へ出発。ソ連の最高首脳らと率直に語り合い、平和への「人間外交」を繰り広げたのです。

コスイギン
<ソ連・コスイギン首相と>

さらに池田名誉会長は、世界54カ国・地域をめぐる平和旅で、各国の首脳や識者、市民らとの地道な対話で、平和への友情を広げてきました。

池田名誉会長は述懐している。
「あの時、先生は、『いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい!』と鋭く叫ばれた。絶対に忘れることのできない、厳しき遺訓である。
その遺言の通り、私は、先生の平和思想を、堂々と全世界に訴え続けてきた。師の教えを必ず実行する。それが真の弟子の道であるからだ」。

あの原水爆禁止宣言から60年を経た、2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が122カ国・地域の賛成多数により採択された。

青年が命をかけて立ち上がったとき、歴史の流れは大きく変わった。
今求められているのは、その心を継ぐ一人である。

 創価学会に対する、批判中傷は、喜ぶべきことだと、戸田から聞かされた会員たちはキョトンとしていた。果たしてそうであろうかと、内心疑っている表情を見て取ると、戸田は御書を取り出して話を続けた。

 「こうしたことは、今に始まったことではない。大聖人御在世の時は、三類の強敵が全部出そろって、あのような法難に遭われたのだ。『種種御振舞御書』を拝読してみれば、当時の道門増上慢が、どういうものだったか、はっきりわかるだろう」
 戸田は、指さした個所を、側にいた女子部の幹部に読ませた。
 「又念仏者集まりて詮議す、かうてあらんには我等かつえしぬ(餓死)べし・・・」(御書920p)
 
 読み終わると、戸田は一同に視線を注いだ。
 「この通りであった。大聖人は佐渡へ流されたが、そこでも盛んに折伏をなさって、次々と大勢の島人が帰依してきた。こういう状態に不安になった他宗の僧たちは、大聖人を憎んだ。『又念仏者集まりて詮議す』何を詮議したかというと、『かうてあらんには我等かつえしぬべし』・・・このままだと、自分たちが飢え死にしてしまうだろうというんです。今の他宗の僧たちの不安と、まことによく似ているではないか。『いかにもして此の法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬ』。
 なんとかして大聖人を殺したい。もうこの国の者は、あらまし大聖人についてしまったと詮議したわけです。
 そこで、佐渡の念仏の指導者たちは、鎌倉へ行って幕府に訴えた。『此の御房・島に候ものならば堂塔一宇も候べからず僧一人も候まじ、阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす』・・・ちょうど、今、創価学会をこのままにしておくと、自分たちは飯が食えなくなると、他宗の者たちが、新聞を使って騒いで、文部省あたりへ、なんとかしてくれと訴えている。そっくりではないか。
 こんなわけで、今の騒ぎは道門増上慢であることは間違いない。われわれの活動も、ようやく、ここまできたと見て喜ぶべきだろう。このあと、広宣流布が進むにつれて、いよいよ最後の第三類の強敵、僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の時代が必ず来るだろう。これは手強いことを覚悟しなければならない。
 その時、もし退転でもするようなことがあったら、なんのために、せっかく信心をしてきたのか、わけがわからなくなってしまう。その時こそ、しっかりしなくてはなりません。そこで、自分の一生が、栄光か破滅か、そのいずれかに決まることを知らなくてはならない。
 今は、まだ序の口の序の口だが、広宣流布の方程式を、ちゃんと進んでいるわけだ。慌てる必要はない。沈着に学会の方針通りに進んでいけばよいのだ」
 戸田は、まるで他人事のような落ち着き方であった。

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 昭和29年頃、創価学会の会員が、全国規模で激増し、毎月一万世帯前後の入会者を数えるようになると、世間は、いわゆる「折伏」を問題にし始めた。
 使命感に生きる会員の救世の情熱は、惰性に沈んでいた既成宗教には、とうてい理解されるところではなかった。
 また、宗教活動を営利的に利用することを事とした、戦後、雨後のタケノコのように発生した新宗教も、創価学会の華々しい折伏によって、自宗の教勢が、日に日にそがれていく現実を目の当たりにし、さまざまな中傷と策動を始めたのである。

 創価学会の再建当時から、青年部の有志は、随時、他宗の寺院や本部などに出向いて法論に挑み、他宗の幹部の心胆を大いに寒からしめていた。
 青年たちは、戸田城聖に短日月のうちに教授された日蓮大聖人の仏法が、法論のたびに向かうところ敵なしという結果を重ねるのを、身をもって知るに及んで、彼ら自らがまず驚いた。彼らは、大聖人の仏法の正しさを、法論によって、まざまざと実感したのである。彼らは、生涯の使命と目的を、広宣流布という未聞の大事業に委ねて悔いない覚悟を強くした。

 この青年部有志の、他宗との法論闘争を、戸田は、奨励したわけではなかったが、青年たちが、大聖人の仏法の正統さを知る、最も直接的で有効な手段として見ていた。
 僧侶という、一生を宗教にかけた専門家が、法論に敗れても、なお平然として改宗もしないでいることが、青年たちには、まことに不思議であった。
 ”いくら法論に勝っても、これでは広宣流布の道は少しも進まない。どうしたらよいのか”
 彼らの一人は、戸田に質問しないではいられなかった。

 「いくら法論闘争しても、一人の僧も改宗させることができません。明らかに非を悟っていながら、日蓮大聖人の仏法に帰依しようともしないのは、どういうわけですか」
 戸田は、にっこり笑って、いきり立つ青年たちに諭すように言った。
 「君たちも気がついたか。現代の宗教が、どんなに堕落しているかという明確な証拠です。末法とはよく言ったものだ。昔は、まだ法論にはルールがあった。負けた者は、勝った者の宗旨に改宗することをかけて法論したものです。真剣勝負だった。
 今は、負けても負けたと言わない。恐るべき狡猾さが身について、それが処世術になっているのが、現代の宗教界といってよい。その証拠に、人を不幸にこそすれ、一人の人さえ救うことができないではないか」

 「すると、いったい広宣流布は、どうしたらできるのでしょうか。他宗の僧一人も改宗させることができないようでは・・・・」
 「そこだよ。現代の広宣流布は、不幸な民衆一人ひとりを救っていく活動です。辛抱強く、一対一で、日蓮大聖人の真の仏法を説き、納得させて、一人が一人を救っていく以外に方法はない。これが創価学会の使命とするところの実践活動です。
 では、なぜ、ぼくが青年部に法論闘争を許しているのかと、君たちは思うだろう。それは君たちのためなのだ。君たちに、日蓮大聖人の仏法が、いかに正統で、すごいものかということを、わからせたいためです。
 そうじゃないか。ぼくが、いくら真の仏法のすごさを説いても、君たちが疑っていたら仕方がない。実際に他宗と比較してみれば一目瞭然となる。それには、法論を、ちょっとでも挑んでみれば、すぐわかることだ。法論闘争は、君たちの信心を強固にするために許しているんです」

 事実、散発的な法論闘争が、随所でいくら行われても、他宗の僧侶や幹部は、内心の狼狽はともかく、世間的には微動だにもしなかった。
 青年部の有志たちは、青年らしいため息をついて、現代の宗教の醜態を知り、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、いよいよ知るのであった。

 ところが、1954年(昭和29年)頃になると、活発な折伏活動が全国にわたって展開されるに及び、他宗の寺の檀家のなかで、離檀する人が続出するという現象が各地に起きた。地方の、ある寺では、年間30軒の檀家が、創価学会に入会して寺を離れていった。もし、この事態が続くものとすると、数年経たないうちに、寺の経営は成り立たなくなることが自明である。
 他宗の住職たちは騒ぎ出した。宗教上の問題というより、まず生活が脅かされたからである。彼らは、墓地への埋葬を拒否するという挙に出たために、それが法律問題となった。さらに、彼らは地方の新聞に訴えて、中傷を創価学会に加えたのである。
 彼らは、宗教としての建前上、檀徒の改宗離檀の問題を、さすがに生活基盤の侵害としては公言できなかった。
 そこで彼らは、宗教団体を管轄する文部省に、創価学会が暴力的宗教団体ででもあるかのように、訴えたのである。
 文部省宗務課は、各府県に連絡して実態調査を始めなければならなかった。創価学会の活動が、果たして宗教法人法第81条にある「公共の福祉を害する」にあたるかどうかを問題としたのである。
 今日からすれば、笑うべきことであるが、当時、忽然と社会に頭角を現し始めた創価学会は、全くの誤解と曲解による敵意につつまれていたといってよい。
 たとえば、ある新聞に、「信仰相談」という欄があり、週3回、投稿質問に対し、回答を載せていた。4月下旬ごろから、しばしば、創価学会に対する一方的な中傷を取り上げ、学会の指導は、すべて迷信の妄想などと回答していた。
 回答者は、老子の思想を基調とした、宗教的な小さな団体を主宰する人物であった。彼は、日蓮大聖人の仏法を研究した痕跡すらない男であったが、新聞の回答者としての客観的地位を利用して、あらゆる誹謗を続けていた。彼自身も、既に折伏を受け、感情的な反発を回答に流し込んでいたのである。
 青年部の有志は、これを黙視することはできなかった。直ちに新聞社と回答者に、直接、抗議し、回答者と法論の末、今後、創価学会を迷信、邪教呼ばわりしないことを約させ、一札を取った。しかし、回答者は、露骨な敵意を、その後も改めることはなかった。

 また、地方の新聞のなかには、8月の夏季地方指導での折伏をきっかけに、無認識な批判をでかでかと掲げて中傷するものが出てきた。9月になると、ある新聞が、3面トップに大きく中傷記事を載せたのをはじめ、やがて全国紙も学会のことを取り上げ、批判するようになった。

 さらに宗教団体の機関紙でも、大々的に創価学会を批判しだした。ある宗派では、9月5日、僧百数十人を集めて、創価学会対策の会合を開いた。そして「創価学会の妄説に惑うな」と大きな見出しを付けた機関紙の臨時増刊号を発行して、同派の全寺院に配布したのである。

 こうした事態に対して、戸田城聖は、泰然自若として、笑って言うのであった。
 「いよいよ御書に説かれた道門増上慢が出始めたところだよ。つまり三類の強敵のうち、第二類の道門増上慢が約束通り出てきただけの話だ。
 これまでは、第一類の俗衆増上慢といって、家庭や職場や、知人、友人などからの中傷批判であった。そのなかで諸君は立派に信心を貫いてきたわけです。
 今度は、他宗の僧や新聞が騒ぎ始めたところだ。何も驚くことはない。われわれの広宣流布の活動の途上で、来るべきものが、当然、来たというだけだ。これはむしろ喜ぶべきことです」
 批判中傷は、喜ぶべきことだと聞かされた会員たちは、キョトンとしていた。
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<続く>

 昭和29年、水滸会の第1回野外研修を終えた戸田は、あらためて青年の育成が急務であることを痛感した。
 ”青年たちに、確たる目標を与えて、大きく飛躍させなければならぬ”
 戸田は、思索した。
 そして、その思索の結晶を、十月一日発行の『大白蓮華』の巻頭言に、「青年よ国士たれ」と題して発表したのである。

 巻頭言の冒頭で、彼は、創価学会が信奉する日蓮大聖人の仏法が、科学的批判に耐え得る哲学性をもち、法理的に最高の教義を備えた宗教であることを訴えていった。
 「われらは、宗教の浅深・善悪・邪正をどこまでも研究する。文献により、あるいは実態の調査により、日一日も怠ることはない。いかなる宗教が正しく、いかなる宗教が邪であるか、また、いかなる宗教が最高であり、いかなる宗教が低級であるかを、哲学的に討究する。また、いかなる宗教が人を救い、いかなる宗教が単なる観念的なものであり、いかなる宗教が人を不幸にするかと、その実態を科学的に調査している」

 宗教は、観念であってはならず、現実の生活を変え、社会を変革する力を備えていなければならない。宗教は独善的であってはならず、あらゆる批判に耐えられるものでなければならない。それは、戸田が、先師・牧口常三郎から教えられた宗教観であった。そして、そのような条件を備えた宗教こそ、日蓮大聖人の仏法であることを、彼は、体験を通して確信していた。

 戸田は、日蓮大聖人の仏法を信奉する人生が、いかに尊く、いかに誇るべきものか、その大確信を青年たちに与えようとしたのである。
 そして、最高の宗教を奉ずる青年は、自己の安穏を貪るのではなく、社会の実態を深く認識して、世の不幸を根絶するために戦うべき使命があることを、自覚させようとした。
 「諸君よ、目を世界に転じたまえ。世界の列強国も、弱小国も、共に平和を望みながら、絶えず戦争の脅威に脅かされているではないか。一転して目を国内に向けよ。政治の貧困・経済の不安定・自然力の脅威、この国に、いずこに安処なるところがあるであろうか。『国に華洛の土地なし』とは、この日本の国のことである。
 隣人を見よ!道行く人を見よ!貧乏と病気とに悩んでいるではないか。物価は高くして、絶えず生計の不足を嘆く者、住むに家なくして心うつうつとして楽しまざる者、事業不振におののく者、破産にひんして戸惑う者、数えあげれば数限りがない」

 復興の緒についたとはいえ、まだ戦後九年である。安定した社会というにはほど遠く、多くの人々が貧困に悩み、病に苦しんでいた。社会の混乱、民衆の苦悩・・・これを解決していくのは誰なのかを、戸田は問うた。
 「国に人なきか、はたまた、利己の人のみ充満せるか。これを憂えて、吾人は叫ばざるをえない。日蓮大聖人の大師子吼を!
 『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願破るべからず』(御書232p)
 この大師子吼は、われ三徳具備の仏として、日本民衆を苦悩の底より救いいださんとのご決意であられる。われらは、この大師子吼の跡を紹継した良き大聖人の弟子なれば、また共に国士と任じて、現今の大苦脳に沈む民衆を救わなくてはならぬ」
 「国士」とは、いかにも大時代的な言い方ではあるが、明治生まれの戸田にとっては、最もなじみのある言葉であったのであろう。彼は、この「国士」という言葉を、不幸の民衆の中に飛び込み、人びとの幸福と世界の平和を築きゆく闘士、すなわち「革命児」の意味で用いたのである。

 彼は、日蓮大聖人の師子吼を、わが精神、わが命に刻むことを青年たちに望んだ。そして、崇高なる誓願のもとに国士として決起することを促した。
 「青年よ、一人立て!
  二人は必ず立たん、
  三人はまた続くであろう。
  かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである。
 青年は国の柱である。柱が腐っては国は保たない。諸君は重大な責任を感じなくてはならぬ。
 青年は日本の眼目である。批判力猛しければなり。眼目破れてはいかにせん。国のゆくてを失うではないか。諸君は重大な使命を感じなくてはならぬ。
 青年は日本の大船である。大船なればこそ、民衆は安心して青年をたよるのである。諸君らは重大な民衆の依頼を忘れてはならぬ」

 戸田は、青年たちこそ、「苦の柱」であり、「日本の眼目」「日本の大船」であると訴え、彼らに全幅の信頼を寄せた。そして、「日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(御書989p)と仰せの通りに、青年たちが日蓮大聖人と同じ誓願に立って行動を展開すべきことを教えたのだ。

 そして、最後に、「諸君よ!」と呼びかけ、「強き生命力を養い、誉れある国士として、後世に名を残すべきである」と結んだ。

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創価学会の活動は多岐にわたっていますが、その目的は「広宣流布」です。

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では「広宣流布」とは、具体的にどういうことでしょうか。
それは「一人ひとりの幸福」であり、「社会の平和・繁栄」です。
一人ひとりの幸福なくして、平和な社会はありません。
また、社会の平和・繁栄なくして、一人ひとりの幸福もないでしょう。

正しい教えを信じ、実践することで、「個人の幸福」を確立しようと努力する。
と同時に、その個人が「社会の平和と繁栄」のために祈り、その実現のために行動する。
この積み重ねによって、人と人との絆を強めて善の連帯を築き、
人間共和の理想社会を実現していく。
これが、創価学会の推し進める「広宣流布」です。

創価学会は、生命変革の根本法である妙法を弘めながら、
同時に、民衆自身の手によって、
人間を手段化し、不幸へと陥れようとする権威・権力と戦ってきました。

池田名誉会長は、小説「人間革命」の「はじめに」の中で、
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」と綴っています。

「一人の人間の幸福の確立」が、やがては「社会の平和と繁栄」につながっていく。
ここに創価学会の特徴があります。
現在、その運動は、広範な平和・文化・教育運動として、
各界で信頼と実績を勝ち取ってきました。

名誉会長が世界の数多くの著名な指導者と対話し続けてきたのも、
この理想の実現のためにほかなりません。
SGI(創価学会インタナショナル)として世界に広がる、
この「広宣流布」の大潮流は「仏法を真に世界宗教として再生させた偉業」として、
多くの識者からも賞賛されています。

戸田は、創価学会の会長に就任すると、学会を宗教法人とする検討を始めた。
昭和26年4月には、宗教法人法が施行されていた。
彼は、創価学会を宗門から独立した宗教法人とすることが、
今後の広宣流布の活動の展開にとって、不可欠であると考えたのである。

なぜかといえば、まず第一に、
広範な活動に際して、総本山に直接の責任や迷惑を及ぼさないためであり、
第二に、総本山を外護する団体として、思い切った折伏行を断行するためである。
また第三に、現代の複雑化した社会にあって、
また人びとの生活も多岐にわたる時となって、
少数の僧侶をもって一切を運営するという方式のみでは、とうてい事をなすに不可能だからである。
第四に、信者を基礎として宗教団体を構成するという考え方は、
広くキリスト教の歴史や、
戦後の民主主義の趨勢を冷静に分析して宗教団体の方向性を考察するとき、
従来の形態に必ず付加していかなければならない重要な一視点であるからである。
妙法を根底としつつ、そこから一切の社会の各分野にわたって広く活躍していったほうが、
はるかに広宣流布の伸展も早まるにちがいない。
また、それが自然な姿でもあったからだ。

学会が、宗教法人法にもとづく宗教団体となるにあたっては、
このようにあらゆる角度から検討が加えられ、
総本山とも連携をとりつつ決定されたものである。
今にして思えば、この時の戸田の決断は、
学会の行き方が、正しかったことを実証したのである。
その後、学会は「宗教界の王者」として、世界に飛翔していった。


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 戸田は、未来を託す青年部に、今こそ明確な指針と、希望と、精神とを与えようと心を砕いた。それは、彼の心からの曇りない叫びでなければならない。彼はその草案を練りに練っていた。一語の無駄もなく、彼の精神が、そのまま青年たちの心に、永遠に生きねばならぬ。彼は、憔悴するほどの熱意で、文章にしていった。

 それは初め、班長への告示として発表され、後に「青年訓」として、多くの青年部員たちが常に朗唱し、支えとしていった一文である。

 「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である。吾人らは、政治を論じ、教育を勘(かんが)うる者ではないが、世界の大哲・東洋の救世主・日本出世の末法御本仏たる日蓮大聖人の教えを奉じ、最高唯一の宗教の力によって、人間革命を行い、人世(じんせい)の苦を救って、各個人の幸福境涯を建設し、ひいては、楽土日本を現出せしめんことを願う者である。
 この事業は、過去においては、釈迦の教団が実行し、近くは、日蓮大聖人の教団が、勇ましく戦ったのである。釈迦教団の中心人物たる舎利弗にせよ、阿難にせよ、みな若き学徒であった。日蓮大聖人の門下も、また、みな若き学徒によって、固められていたのである。日興上人は、大聖人より二十四歳も若く、日朗もまた、二十一歳の年のひらきをもっていた。西より東に向かった仏教も、青年によって伝承せられ、東より西に向かう大聖人の仏法も、青年によって基礎づけられたのである。
 吾人らは、この偉大なる青年学徒の教団を尊仰し、同じく最高唯一の宗教に従って、人間苦の解決・真の幸福生活確立・日本民族の真の平和・苦に没在せる東洋の浄土化を、弘宣(ぐせん)せんとする者である。
 諸兄らは、この偉大なる過去の青年学徒群と、同じ目的、同じ道程にあることを自覚し、これに劣らぬ覚悟がなくてはならぬ。霊鷲山会(りょうじゅせんえ)に、共々座を同じうしたとき、『末法の青年は、だらしがないな』と、舎利弗尊者や、大聖人門下の上人方に笑われては、地涌の菩薩の肩書が泣くことを知らなくてはならない。

 奮起せよ! 青年諸氏よ。
 戦おうではないか! 青年諸氏よ。

 しからば、だれ人と、いかなるいくさを、吾人らは、なすものであろうか。
 第一は、無知の者に永遠の生命を教え、御本尊の絶対無二なる尊貴を知らしめて、功徳の大海に思うがままに遊戯(ゆげ)する、自在の境涯を会得せしむるために、忍辱(にんにく)のよろいを着、慈悲の利剣をひっさげて戦うのである。
 第二は、邪智、邪宗の者に、立正安国論の根本義たる、邪宗、邪義は一切この世のなかの不幸の原因であり、それがために、諸天善神は国を捨て去り、聖人は所を去って、世はみな乱るるなりと教え、邪智、邪宗をひるがえすよう、智慧の鎧を身にまとい、かれらが執着の片意地を、精進勇気の利剣をもって、断ち切るの戦いである。
 第三に、衆生を愛さなくてはならぬ戦いである。しかるに、青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて、仏の慈悲の境地を会得する、人間革命の戦いである。
 しこうして、吾人はさらに、諸兄らの行動について、望むところをもつものである。
 第一に、絶対的確信にみちたる信仰の境地に立脚し、信行(しんぎょう)において微動だにすることなく、唯一無二の御本尊を、主・師・親と仰ぎ、日蓮大聖人と共にいますのありがたさにあふれ、地涌の菩薩の後身を確信することである。
 第二は、行学に励み、御書を心肝にそめ、大聖人の仏法に通達して迷いなく、今はいかなる時かを凝視して、大聖人のみ心を心とし、日興上人のご遺誡をわが命(めい)として、努むべきである。
 第三に、その行動の態度たるや、真摯にして暴言を用いず、理をつくして指導の任に当たり、威厳と寛容の姿のなかに、邪義、邪宗、邪師に対しては、一歩も退かぬ勇気あるべきことである。
 第四には、部隊長および班長の命を奉じて、学会精神を会得して、同志の士気を鼓舞し、広宣流布大願の中心人物たることを、自覚せられたきことである。
 しかも、広宣流布の時は近く、御本尊流布の機は、今まさにこのときである。ゆえに、三類の強敵(ごうてき)は、まさに現れんとし、三障四魔は勢いを増し、外には邪宗、邪義に憎まれ、内には誹謗の声ようやく高し。驚くことなかれ、この世相を。こは、これ、聖師(しょうし)の金言なり。
 されば諸君よ、心を一にして難を乗り越え、同信退転の徒の屍を踏み越えて、末法濁世(まっぽうじょくせ)の法戦に、若き花の若武者として、大聖人の御おぼえにめでからんと願うべきである。愚人にほむらるるは、智者の恥辱なり。大聖にほむらるるは、一生の名誉なり。心して御本尊の馬前に、屍をさらさんことを」

 この戸田の、四百字詰めで約四枚半の原稿は、直ちにガリ版刷りにされ、男女の青年部員の手に渡った。たちまち一陣の風が、青年部のなかに起き、衝撃的な感動を呼んでいった。

 ある人は感激し、ある人は、わが身の使命に深く思いをいたし、僚友と夜を徹して語り合った。また、ある人は、朗読し、ひそかに生涯の誓いを立てた。

 この文章ほど、戸田城聖の精神が脈打っているものはない。今日から見れば、やや大時代的な言語表現のきらいはあるが、それは、彼の人間形成の時期が明治・大正の代であり、その名残をいささか留めているがためである。そこに秘められた、崇高にして純粋な彼の精神そのものは、誰人も及ぶものではなかろう。
 ともかく、彼は、誰よりも青年であった。青年をこよなく愛した彼は、終生、青年であった。その青年の心が訴えた一文ゆえに、多くの青年に、かくまでの感動を呼び起こしたのである。

 創価学会青年部の精神的基礎は、この時、強固に確立され、それは伝統的精神として、今日も、なお生きている。青年部の、はつらつたる行動規範は、この一文に込められていた。「青年訓」を読み、熱い血潮をたぎらせた青年が、やがて学会中枢の人材に育っていったのである。

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戸田城聖は、生涯のなかで最も苦闘の底にあった時、
未来のために、今こそ、次代を託す青年を訓練しなければならないと思った。
そして、青年部のなかから14人を選んで、年頭から、本格的な特別訓練を開始していた。
ほぼ毎週の会合である。
当時の、戸田会長の一身は、どこで、どうなるかわからない状態であった。
心身ともに疲労困憊の極に達していたが、この訓練の会合だけは、決して怠らなかった。

世の多くの為政者たちは、青年を利用し、犠牲にして、そのうえに己の名声を保つものだ。
だが、真の指導者は、青年の未来の栄光のために犠牲となり、彼らを陰で見守っていくものだ。


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1951年(昭和26年)5月3日の、戸田城聖の会長就任式。
今、常泉寺の本堂で、会長就任の決意を語る彼は、未来にわたる進路を展望しつつ、
それを妨害する一切のものの除去をも、宣言しなければならなかった。
彼は、僧俗が一体になっての広宣流布の推進を切願して語っている。

「不幸にして『めったやたらに御本尊はお下げしない』と言って、
信徒の折伏の熱誠をそぐような御僧侶が、極めて一部にあることを伺いました。
御本尊は、一切衆生のためにお下げくださるものである。
一部の占有物であるはずがない。
これは御仏意に背くものと考えざるを得ません。
寺は建てたが、本尊は下げ渡すぬというのでは、
寺は、なんの働きをするというのでしょう。
これでは、ただ坊主の寝床をつくったにすぎないことになる。
広宣流布とは、寺を建てるということにあるのではなく、
結論して言えば、正法が流布して、中心となる法城の必要から寺が建つのであります。
また、戦時中神本仏迹論を主張して、時の御法主上人を悩ませ、
また学会弾圧の因をなした笠原慈行という悪僧が、
今なお僧籍にあるやに聞きますことは、われわれ信徒として、
遺憾このうえもないことと存ずる次第であります」

彼の声は厳しく、攻撃に似た響きさえあった。
彼は、すべてが激動し、変動する怒涛逆巻く時代にあって、
僧侶としての真の在り方を、自覚してもらいたかったのであろう。
戸田は、言わざるを得なかったのである。

僧侶が、もし、広宣流布に向かう熱誠をもたないならば、
真面目な信徒は苦しみ、犠牲になる以外になくなってしまう。
ゆえにこのことは、御聖訓に照らしても言い切っていくべき道理である。
その精神がなくなれば、
封建社会の檀家制度のもとの既成宗教と、なんら変わることがない。
また、時代に相応する、宗門の永遠性も、発展性も、なくねってしまうことになる。

戸田は、ここで宗門のことに触れたが、一年後の立宗七百年祭の四月、
「笠原事件」という残念な事件が起きている。
彼は、既にこの時、宗門の存亡の危機を招いた禍根が、
今なお断たれていないことに、深く思い悩んでいたにちがいない。


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昭和26年3月17日
戸田は、自宅に、山本伸一、森川一正ら四人を招き、最初の企画会をもった。
今日、発行部数550万部になっている「聖教新聞」発足の記念すべき日であったわけである。
戸田は、根本指針を示しながら、遠大な構想を語った。

「この新聞をもって、広宣流布の火蓋を切っていくんだ、これこそ学会の先兵だ。あらゆる意味で、言論戦の雄とならなければならぬ。まず、日本の言論界を左右するだけの、自負と迫力をもったものにしなければならない。
 素人の集まりだから、最初は不器用なものが出来上がるだろうが、広宣流布の新聞であるからには、類例のない正確な新聞であるべきだ。大いに独創性を発揮して、すべての庶民に対して、説得力のあるものにしてもらいたい。正直で、嘘がなく、正確でありさえすれば、読者は必ず信頼するようになる。もう一つ、読んですてきな、面白いものになるといいのだがな。誰か、漫画のうまい人でもいるといいがなぁ。ハ、ハ、ハッ」

 彼の構想は、新聞ひとつにしても、とどまるところを知らなかった。

「まぁ、見ていてごらん。やがて日本一の立派な新聞だと言われる時も来るよ。それには、それだけの努力と、研究が必要だし、腕も、もたなければならない。力は御本尊様から幾らでも頂けよう。力ばかりあったって、腕がなかったら惨めなことだ。
 今日は17日か。2,3日真剣に考えて、編集プランを持って来てくれたまえ。そして、21日に第1回の編集会議を開くことにしよう。さぁ、今夜はゆっくり、酒でも飲ましてもらおうか・・・」

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 戸田は、大変なご機嫌であったが、四人の速成編集スタッフは面喰ってしまった。
 彼らは、急に、毎日の新聞を、隅から隅まで読みだした。さまざまな報道記事のほかに、社説があり、小説があり、写真があり、コラムがある。子細に見れば、狭い紙面にも、工夫して幾つもの変化があった。広告欄も忘れることはできない。
 彼らは、数日、それぞれ想像をたくましくして、第1回の編集会議に臨んだ。そして、互いに夢のような案を持ち寄ったが、具体性をもつものは乏しかった。ただ、一般紙の社会面の代わりに、いい信仰体験をどしどし掲載すべきだという案が、かろうじて現実性のある独創的プランとして取り上げられた。

 戸田は、頷きながら言った。
「体験談は大いにいい。しかし、よほど正確な記述をしないと嘘になる。嘘になるばかりではない。いいかげんなことを書くと、妄想的で神がかりめいた、いかがわしい記事になりかねない。体験談は、やさしいようで、なかなか難しいぞ。・・・ほかに、『あっ』と言わせるような案はないか。・・・まず案を立てて、それを幹部に書かせるのだ」
 素人も、3年、5年たてば、立派な玄人になることを、彼は、十分、知っていたのだ。

「これから新しい事業を起こすようなものだから、諸君は希望に胸をふくらませているかもしれない。それが素人の、いいところだ。
 しかし世の中は、そんなに甘いものではない。誰からも、立派な日本一の新聞だと言われるようになるためには、絶えざる努力と、研究と、それから忍耐がなければなるまい。
 今の諸君の話を聞いていると、なんだか遠い未来の夢想を語っているように聞こえるね。それでは、創刊号は出ても、たちまち後が続かなくなってしまうぞ」
 確かに、いざ新聞発刊となると、勝手な夢想は許されなかった。

 話は具体的になっていく、紙名は ”文化新聞” ”創価新聞” ”公正新聞” などの名前も出ていたが、結局「聖教新聞」と決定されたのである。そして、当分は、月3回の旬刊、ブランケット判2ページで始めることに決まった。だが、紙面構成の問題が、なお残ってしまった。

「体験談ばかり、ベタベタ並べても新聞にはならない。まず、背骨となる社説がなければならん。これは、山平君や石川君など、信心より理屈の好きな連中に、どしどし書かせるのだ」
 スタッフの一人が、口をはさんだ。
「社説は、先生に書いていただかないことには・・・」
「うん、書くさ。誰も書かなければ、ぼくが書くより仕方ない。しかし、ぼくは気取った社説などより、ピリッと寸鉄人を刺すといったような、短い記事は、意外に読むものだ。自分にあてはめて考えてごらん・・・・。
 そうだ、『寸鉄』というカコミをつくろう。最初は練習のために、森川君、書いてみたまえよ。それから、今、考えているのだが、小説の一つも書かなければならんだろう」
「小説?」
 速成編集員たちは、意外な顔をした。小説の掲載までは、誰一人、考えていなかったのである。
「小説だよ。長編小説だ。新聞をつくるからには、小説ぐらいなければ恰好がつかないじゃないか」
「でも、誰が書くんでしょうか。先生がですか?」
「そうさ、ぼくが書く。書いては悪いような顔をするなよ。もう題名だけは決まっている。・・・・・『人間革命』とうのだ」
「へえっ、すごいな!」
「作者の名前もつくった。妙悟空というのだ」
「へえ、変な名前ですね」
「うん、ちょっとわからんだろうな。あの孫悟空の兄弟じゃないぞ。ハ、ハ、ハッ・・・・。悟空というのは、空観を悟るという意味だ。『西遊記』の作者は、かなり仏法に精通した人であったようだね。ぼくの妙悟空、妙法の空観を悟ったという意味なんだ。どうだ、いい名前だろう」
 戸田は実に楽しそうであった。
 後の話になるが、この連載小説は、妙悟空著『人間革命』として、戸田が亡くなる一年前に出版され、当時のベストセラーとして評判になった。

 「聖教新聞」は、翌月の4月20日に、第1号が発刊されたのである。その発行部数は、わずか五千部であった。
 一面のトップには、三鷹事件のただ一人の有罪被告・竹内景助について、妙法を持つ者の信念と、左翼思想をもつ者の信念とを対比して、鋭い論陣を張っている。
 この記事も、戸田の執筆であった。
 寸鉄欄も、結局、森川一正ではうまくいかず、戸田が書き、小説『人間革命』も彼の筆によるものである。
 戸田の活躍は、創刊号から編集長であり、論説記者であり、また小説作家であったわけだ。
 さりとて戸田は、新聞人になったわけではない。あくまで広宣流布に挺身する指導者であった。

今、緊迫した北朝鮮情勢のなかにあって
60年前に創価学会の青年に託した、戸田第2代会長の遺訓が
今日のためにあるような気がしてならない。
その青年に託した遺訓の第一とは・・・・・

戸田城聖は、逝去に先立つ半年前、昭和32年9月8日
横浜三ツ沢競技場で挙行された青年部東日本第4回体育大会の演壇で、
遺訓の第一として次のような獅子吼を残した。

今、世に騒がれている核実験、原水爆実験に対する私の態度を、本日はっきりと声明したいと思うものであります。・・・・・
それは、核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う。
それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用した者は、ことごとく死刑にすべきであると主張するものであります


壇上の彼の姿は、春の発病以来、小康を得ていたものの、気迫にいたっては、いささかの衰えも見せなかった。晴れわたった空の下で、後事を託するに足る、万余の青年男女に向かって、彼は遺訓を未来にかけたのである。

なぜならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかす者は、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用した者は、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。
たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用した者は悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。・・・・・


彼の原水爆に対する宣言ともいうべきこの遺訓は、多くの宣言にくらべて、一つの際立った特色をもっている。それは、原水爆の引き金を引くものは、国際間の軋轢や、民衆の利害の衝突や、一国の野望によるものとみえようとも、これことごとく魔の仕業であるという深い洞察である。

人間は、なかなか魔には勝てない。どんなに意志を強固にしても、どれほど善意に溢れていようとも、人間は残念ながら、魔に勝つことが至難のようである。
いったい「魔」とは、どんな正体なのであろうか。これまで抽象的な解釈や説明はなされてきたが、要を得た解明はみられない。だが、根本的には「魔」とは奪命者といわれるように、人間の生命と幸福を奪うもの、つまり人をして、不幸へ、不幸へと落しゆく作用、力であるにちがいない。
では、その「魔」を見破ることのできるものは何か。ここに、生命哲学の重大さが浮かび上がってくる。結論していえば、「魔」を破るものは、ただ一つ「仏」の生命しかないのだ。魔は絶対に、仏に勝つことはできない。ゆえに、核戦力という魔の仕業も、所詮は仏の軍勢によって衰滅するにいたるであろう。
核戦力の絶滅ということは、20世紀に時を同じくして、この地上に出現した、仏の軍勢の使命にかかっている。戸田城聖は、この使命の達成を遺訓の第一としたのである。

してみれば、原水爆禁止に関する真のオピニオン・リーダーたる資格は、いずこにあるのでもない。21世紀において、仏法の真髄である日蓮大聖人の教えを奉じつつ、日夜、孜々として広宣流布の活動にいそしんでいる仏の軍勢、わが創価学会こそ、名実ともにその資格と使命が備わっていると自覚しなければならない。幾百千の平和運動も、やがてこの奔流へ、大河へと、注がれていくであろう。


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 昭和23年の9月にはいると、
戸田先生の法華経講義は、この年の第7回目を迎えていた。
受講者も一変し、一段と活気を呈していた。
戸田先生の法華経講義は、第9回まで続いたが、
なかでも、この7回目の講義が最盛であった。

 5,60名の受講者は、さまざまな職場から、駆け付けてきていた。
まちまちの服装である。
勤労の汗の臭いが、熱っぽい会場に、いつも漂っていた。

 このころ、戸田先生は「法華経講義」の修了者に、
銀色の鶴丸のバッジを授与していた。
これが多少変わって、後に最初の学会のマークとなったのである。

 講義の終わったあとは、様々な質問が出てくる。
社会、経済、政治等々の問題にも及んだ。
しかし、やはり生活の問題と、仏法の解釈が目立った。
戸田先生は、これらに対して、冗談をとばし、人びとを笑わせながら、
直截な回答を与えて、仏法の骨髄からほとばしる見解が、
どんなにすばらしい切れ味をもつものかを、しばしば見せていた。

戸田先生1

 戸田先生の指導法は、いわゆる文化人の観念的な理論や、
難解な高僧の説法などとは、まったく異なっていた。
むろん、当時の戸田先生は、まだ世間的には無名の存在であったが、
その指導によって、真に苦悩に沈む人々を、一人ひとり復活させていたのである。

 世間の人びとは、一般に名のある人が指導者であるかのように、錯覚しがちである。
たしかに、有名人といわれる人は、
それぞれの分野で世に知られるほどの業績を残してはいる。
だが、その指導や説法によって、
現実の生活上の悩みを解決した人は皆無といっていいのではないだろうか。 

戦後、牧口会長の三回忌法要が、神田の教育会館講堂で営まれ、
その法要後に、戦後第一回の創価学会総会が開催された。
総会直後から、日曜日を中心とした、各所の座談会も活発化されていった。
日曜日に限らず、火・木・土曜日にも、しばしば臨時の座談会が開催されていったのである。

会場は、畳がぼろぼろの、四畳半の借間のこともあった。
床の傾斜した、屋根裏部屋のこともあった。
引力に逆らうために、力んで座っていなければならなかった。
また、床板が抜けているのであろう、歩くたびに、タンスの引手が、カタカタと鳴る家のこともあった。

戸田二代会長は、何事にも形式主義を嫌った。
人数は少なくても、座談会は始まった。形式を避け、実質本位であった。
生命と生命との、実質のある触れ合いは、形式的な官僚主義からは生まれない。
あくまで庶民の味方として立つ戸田先生は、
一切の形式的な虚飾を取り去って、庶民のありのままの生地を大事にしたのである。

戸田先生は、いかにも庶民的な指導者であった。
仁丹をポリポリかじりながら、質問者たちのくどい話を、じっと聞いては、
それを要約し、極めて単純化して応答した。
そして、信心の深さと強さを教え、途方に暮れた人たちに、御本尊の功力の偉大さを教え、激励した。

戸田先生は、戦後日本における布教形態として、あえて小単位の座談会を各所で開いていった。
たいていは、わずか数人から二十人程度の会合である。
このような地味な会合を、座談会として活発に行ったのには、理由があった。

そこには、老人も、青年も、婦人も、壮年も、誰もが集うことができる。
貧富の差や、学歴の違いは、全く問題ではない。
むろん、この会合には、中心者がいるが、あくまで皆が主役である。

したがって、今日、初めて来た人も、あるいは信仰に疑問を持っている人でも、
自由自在に意見や、質問や、体験を語ることができる。
一切の形式抜きで、全員が納得するまで、語り合うこともできる。
戸田先生は、これこそ民主主義の縮図であると考えた。

赤裸々な人間同士の、生命と生命が触れ合って、心と心とが通い合う会合である。
いわば仏道修行の、求道の道場でもあろう。
また、学会を大船とすれば、座談会は大海原である。
大海原の波に乗ってこそ、民衆救済の大船は進むことができる。

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講演会や、大集会を開くのもいいだろう。
しかし、それだけでは、指導する側と民衆との間に、埋めることのできない溝ができてしまう。
あくまでも、一人ひとりとの対話こそ根本である。
どこまでも、牧口会長以来の、伝統の座談会を、生き生きと推進し続ける限り、
広宣流布の水かさは着々と増していくであろう。



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 美・利・善の価値体系が、人間の考えうる範囲の、最高極善の価値を理解せしめるものであることは、確かである。
 しかし、御本尊には、人間の思考をはるかに超えた、無量無辺、無限の仏力・法力がある。南無妙法蓮華経は、価値のいかんにかかわらず、厳然と実在するのである。
 しかるに、これを価値という時、それは観念的な価値論の範疇に閉じ込められてしまいかねない。

 戸田先生は、恩師・牧口先生の価値論の論理を、こよなく愛していた。現代哲学の最高峰であるとも思っていた。その独創的な立論に、心から脱帽していた。
 だが、獄中にあって、大聖人の大生命哲理を覚知した今は、価値論という人工的な操作の限界を、知らなければならなかった。

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 昭和21年4月からの、戸田先生の法華経講義は、月・水・金曜日と、定期的に行われるようになり、安定度を加えてきた。

 戦後の混乱した状況下にあって、さまざまな団体が次々と名乗りを上げ、派手に活動を展開していた。そのうちの大半は、利得のための活動であった。
 宗教界も同じである。既成宗教は、あまりにも大きな打撃を受けたため、たいした活動もできなかったが、新興の宗教は、瞬く間に行動を再開した。立正佼成会、霊友会、生長の家、「踊る宗教」といわれた天照皇大神宮教などが、息を吹き返したように動き出した。

 戸田先生は、そんな現象には、目もくれなかった。仏法の真髄を知らしめるため、教学を根本として、少数精鋭主義で歩を進めていた。戸田先生の講義は、日ごとに力を帯び、輝きを増していた。

 受講者たちは、いささか面喰っていた。牧口門下生であった彼らは、価値論で鍛えられ、そこから仏法に接近していたからである。戸田先生の講義には、価値論がさっぱり出てこない。いきなり、生命論である。色心不二の大思想論である。戸田先生は、三世の生命を力説した。あらゆる例を引きながら、永遠の生命をわからせようと、真剣であった。

 戸田先生は、出獄以来、ひとまず価値論を引っ込め、そして、南無妙法蓮華経そのものから出発したのである。それは、幾多の苦難の歳月を経て、身をもって体験した確信からであった。

 今、法華経講義の受講者たちは、戦時中の価値論で武装した人びとである。即座に、戸田先生の胸中がわかるはずがない。彼らも生命論に面喰い、戸田先生も彼らを相手に困惑した。この壁を破るために、それからなお数年の努力と苦闘が必要であったのである。


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