人生哲学の並木道

カテゴリ: 御書に学ぶ

 世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思い込んでいることを可能にする力が、御本尊にはある。
 ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。

 日蓮大聖人は、このことを、ちゃんと御書にお認(したた)めになっている。
 「呵責謗法滅罪抄」の末尾に、次のような御文があります。
 「何(いか)なる世の乱れにも各各(おのおの)をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出(いだ)し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」<御書1132p>

 これは、佐渡においでになった大聖人様から、四条金吾に宛てられたお手紙の一節です。
 当時、鎌倉で弾圧に遭っていた弟子たちの身の上を思い、佐渡流罪のさなか、諸天善神たちよ。なんとしてもわが弟子たちを守れ!と、遠くご祈念なさっている、深い偉大な慈悲の御心がうかがえます。
 ひどい乱世で、佐渡におられる大聖人は、弟子たちを、どうしようにも守ることはできない。とても不可能なことです。
 しかし、大聖人様の御祈念は、しっぽりと濡れた木をこすってでも、なお火を出させてみせる。また、カラカラに乾いている砂漠のような大地から、水をほとばしり出させてみせる。
 このように私は、強盛に祈っているのだ、と、お認めになっている。
 御本尊に対する祈りというものは、一大事の時には、このようなものでなければならぬとお示しになっているのです。

 今、私たちの置かれた立場や、合理的な考えに馴れてしまった頭脳では、不可能と思えることもあるでしょう。しかし、無量の力を御本尊は秘めていることを、日蓮大聖人は、明確に教えていらっしゃる。これを信じるか信じないかは、私たちの問題です。大聖人の正統派の弟子であるなら、まず強盛な祈りによって、不可能を可能とする実践が勇んで出てこなければなりません。

春の赤リス

 天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」とは何のことか。

 上記の文は、天台の「摩訶止観」にある一節ですが、この文のすぐ後の箇所に、「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」という有名な文があります。
 法性(ほっしょう)とは、「法の本性」ということで、あらゆる現象が起きるのも、滅するのも、すべてが妙法の働きであることを説いたものです。

※摩訶止観・・・・・法華経の法理をもとに、一念三千の法門を開き顕し、それを己心に証得する修行の方軌を示した書。全十巻。天台大師が隋の開皇14年(594年)に荊州玉泉寺で講述し、弟子の章安大師が筆録したもの。「法華玄義」「法華文句」とともに天台大師の三大部とされる。

 私たちに当てはめれば、法性とは一念の生命であるといえます。一念の変化によって、私たちは迷いの境涯に陥ったり、悟りの境涯に立ったりします。
 無明癡惑というのは、分かりやすく言えば迷いということで、九界の生命です。その九界の生命も「本是れ法性なり」と説かれている。九界の生命も、煎じ詰めれば、妙法であり、やはり一念から出たものだということです。

※九界・・・・・十界のうち、仏界を除く地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界をいう。悟りの境涯である仏界に対し、迷いの境涯を指す。

 
では、わが生命、つまり法性が、どうして無明癡惑になるかというと、悪縁に迷わされるからです。
 生命というのは、縁によって変化します。生命は十界を具えていますから、謗法などの悪縁に触れれば、地獄・餓鬼・畜生といった三悪道に陥ってしまいます。逆に善縁、つまり御本尊に縁していけば、仏界を現じて幸福になっていくんです。
 この両方の生命の働きを、染浄の二法といいます。
 染法というのは、生命が悪縁に染まっていくということであり、浄法というのは、善縁に触れて、生命が浄化されていく働きのことです。

 私たち凡夫の生命は、弱さ、愚かさを持っています。その弱さ愚かさが癡迷です。癡迷に覆われた生命であるが故に、悪縁に触れると、染浄の二法のうち染法が働いて、法性はどうしても無明になってしまいます。
 日蓮大聖人はその理(ことわり)がお分かりになっていたので、御本尊を末法の我々に残されたんです。この御本尊を拝むことによって、染法が働きやすい生命を、浄法が確実に働く生命へと、変えることができると教えてくださっています。
 御本尊は極善の縁です。この御本尊を拝むことで、絶対の幸福境涯を築いていくことができるんです。

孤独なベンチ

兵衛志殿(ひょうへのさかんどの)御返事に云く
「しを(潮)のひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」

(現代語訳)
「潮が干る時と満ちる時、月が出る時と入る時、また夏と秋と冬と春の四季の変わり目には、必ず普段と違うことがあります。凡夫が仏になる時もまた同じことです。必ず三障四魔という障害が出てくるので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くとは、まさにこのことなのです」

この御書は建治元年(1275年)、日蓮大聖人が身延から池上兵衛志宗長に送られたお手紙で、別名を「三障四魔の事」といいます。

このお手紙は、宗長の兄である宗仲が2度目の勘当をされたことで、弟の宗長が動揺して退転することを心配された大聖人は、凡夫が仏になる時は必ず三障四魔が起こることを示され、少しも恐れず信心を貫くよう御指導されているお手紙です。

さらに法華経に合いがたいことを説かれ、合いがたい法華経から離れなければ、わが身が仏になるだけでなく、背いた親をも成仏へ導くことができ、それこそが真の親孝行となると教えられています。

この一節では、潮の干満や季節の変わり目などに、普段と違うことが起こる例を通して、凡夫が仏になる時にも、必ず三障四魔という障害が競い起こってくると仰せです。
そして、その時に仏法の深い原理を知っている賢者は魔を見破り、喜び勇んで打ち破っていき、逆に目先にとらわれた愚者はひるんで退くことを示されて、苦難の時こそ、宿命転換と一生成仏のチャンスであることを教えられています。

池田名誉会長はこの一節を通して、次のように指導されています。
「最大の苦難に直面していた池上兄弟は、この大聖人の厳愛のご指導によって救われ、勇気ある『賢者の信心』を貫くことができた。兄弟を分断し、離間させようとする動きにも乗せられなかった。最後には、二十四年にわたって反対していた父も入信し、一家和楽を勝ち取るのである」

いざという時に、どのような一念を定めて臨むのか。
これが決定的に重要なことです。a1750_000034

法華経勧持品第13の冒頭には、
悪世の衆生は善根が少なく、増上慢が多いことが示されています。
増上慢の者は供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかるとも説かれています。
この増上慢の勢力の中で、正法である法華経を説けば、
おのずと迫害が生ずることは明らかです。

勧持品では、そうしたなかで、法華経の会座に連なった菩薩たちが、
滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても法華経を弘通していくことを誓います。
その誓いが示され、迫害の様相が説かれるのが「勧持品二十行の偈」です。
この中で、迫害者を3種に分類したのが「三類の強敵」です。

それぞれの特徴について経文にもとづいて言えば、
第一の俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)は「無智」の者であり、
第二の道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)は「邪智にして心諂曲(てんごく)」の者であり、
第三の僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)は「人間を軽賤(きょうせん)」し「利養に貪著(とんじゃく)」する、「悪心」の者です。
この「無智」「邪智」「悪心」という増上慢の心は、
「無明」の働きによってもたらされます。

無明とは、生命に具わる根源的な無知です。
その無知から煩悩などの暗い衝動が生じ、生命を不幸へと追いやっていく。
特に万物が妙法の当体であることがわからない最も根源的な無知を「元品の無明」といいます。
正法が説かれた時にも、それを信解できず、かえって反発して、正法を破ろうとする働きを生む。ここに無明の恐ろしさがあるのです。

人間自身に潜む元品の無明から第六天の魔王の働きが起こります。
そして、この第六天の魔王に生命を支配された者が法華経の行者に敵対するのです。

「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうと修行する時に、
この第六天の魔王が、それを妨げようとして様々な働きを起こすことが説かれています。
すなわち、その人が成仏すれば多くの人が導かれて仏になり、
やがてこの娑婆世界が浄土に変革される。
娑婆世界を所領とする第六天の魔王は、自分の国土が奪われることを恐れるために、
家来全員に命じて法華経の行者が成仏することを妨げようとする。
それが駄目であれば、今度は法華経の行者の弟子檀那や国土の人々の身に入り、
諌めたり脅したりして妨げようと仕組みます。
それでも駄目なら、第六天の魔王は自ら行動を起こして、
国主の身に入って法華経の行者を脅し、なんとしても成仏を止めようとする、というのです。

二代会長の戸田先生はよく、
「三障四魔のうち死魔までは勝てるが、本当に恐ろしいのは最後の天子魔である」と言われていました。
この天子魔とは第六天の魔王のことです。
そして、「三沢抄」に示されているように、第六天の魔王が、俗衆・道門増上慢の心を操作し、僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の身に入って、法華経の行者に対する迫害を引き起こすのです。

御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751p)と仰せです。
妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来具わる「元品の法性(がんぽんのほっしょう)」が涌現するのです。
元品の法性とは、仏が悟った万物の究極の真理のことです。

成仏とは、いわば、この法性と無明との戦いに勝つことです。
そして、法華経の行者の折伏行とは、元品の法性を現す行動にほかならないのです。

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本当の幸せは、どこにあるのでしょう。
人は、生きることに疲れると、今いる場所ではない、どこか遠い世界に本当の幸せがあるのでは、と夢見るものです。

しかし、遠い世界に逃れて、自分を縛っていた全てを断ち切ったつもりでも、
ただ一つ逃れられないものがあります。
それは、自分という存在です。
どこに行こうとも、この自分自身からは決して逃れられないのです。

日蓮大聖人の身延での生活をお支えした南条時光の姉に重須殿女房と呼ばれた女性がいます。
石河新兵衛は、日興上人が亡くなるまでの35年間、弟子の育成にいそしまれた重須談所(学問所)を寄進した人物です。
大聖人は、この重須殿女房に教えられます。
「そもそも、地獄と仏は、どこなのかと尋ねてみると、あるいは地獄は地の下にあるという経もあり、あるいは仏は西方にいるという経もあります。しかし、詳しく探ってみると、私たちの身の内にあると説かれているのです。
その通りかと思われる訳は、父を侮り母を疎かにする人は、その人の心のなかに地獄があります。
仏も、私たちの心の中にいるのです。石のなかに火があり、珠の中に宝があるようなものです。
私たち凡夫は、心の中に仏がいるのを知らないでいたのです」(1491p)

仏典では、悪業を積めば、死後に地の底の地獄に堕ちると説いたり、
とりわけ浄土系の経典では、阿弥陀仏の名を唱えれば西方極楽浄土に往生できると説いたりしています。
しかし、仏法の本義に基づけば、恩ある人を裏切る心にこそ地獄があり、
深く妙法を信ずる心にこそ仏がいるのです。

こうした法理自体は、大聖人ご在世当時の仏教の文献にも説かれていますが、
大聖人は、単なる法理の次元ではなく、身命をなげうって妙法を行ずる同志の姿に、ありありと仏の実像を見られていたと拝察されます。

大聖人は、続けて重須殿女房に「不幸は口から出て我が身を破り、幸福は心より出て我が身を飾るのです」(1492p)と教えられます。
不幸も幸福も、それをつくり出すのは、自分自身の心だということです。
重須殿女房の母である上野殿後家尼にも、同じように教えられたことがあります。
「浄土といっても地獄といっても、外にあるのではありません。ただ、私たちの胸の間にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫というのです。
これを悟るには法華経しかありません。法華経を持つ者は、地獄即寂光と悟るのです」(1504p)
自身の心が変われば、地獄も寂光土に変わります。
法華経とは、心を変え国土を変えるための教えなのです。

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幸福な社会というのは、母と子が笑顔で暮らせる社会のことではないでしょうか。
もし、悲しみに泣き暮れる母子が多くいるとすれば、その社会には、どこか重大な過ちがあります。

日蓮大聖人は、「今の日本では、子どもは魂を失い、女人は血を吐いて苦しんでいます」と仰せになり、子どもと女性を苦しませる当時の日本社会に憤りをあらわにされています。
大聖人の門下にも、子育てをする母たちがいました。
そのなかには、夫と死別や離別をして、一人で子どもを抱えながら生活に苦闘する母たちもいました。
大聖人は、そうした母たちに、何があろうと負けずに強く生きるのだと、励ましを送り続けられました。

門下に妙一尼という女性がいましたが、その妙一尼は、幕府の弾圧によって領地を奪われ、大聖人の佐渡流罪中に夫を病気で亡くし、病気の子や女の子とともに不遇な生活を強いられていました。
大聖人は、その妙一尼に「法華経を信ずる人は冬のようですが、冬は必ず春となるのです」と、妙法への絶対の確信を教えられます。
また、こうも仰せです。
「信心とは、妻が夫を愛おしむように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子どもを捨てないように、子どもが母から離れないように、法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えることをいうのです」
相手の心の襞に染みいるように信心の真髄を教えられたのです。
夫がいなければ、社会的にも経済的にも恵まれない生活を余儀なくされます。
にもかかわらず、というより、だからこそ、と言うべきでしょう。
こうした女性たちは、師匠のために広布のために、心を尽くし力を尽くしたのでした。

妙一尼は、大切な働き手であった滝王丸という下人を、佐渡にも身延にも遣わして、不自由な生活を送られていた大聖人のお世話をさせています。
大聖人は、その志を、釈尊が過去世に修行していた際の心を越えるものだと激賞されています。

大聖人から「日本第一の法華経の行者の女人」と讃えられた日妙聖人も、夫と離別して幼い娘を育てていた女性です。
鎌倉の大弾圧の際には、苦境にあった弟子たちを献身的に支えています。
女性の身でありながら、佐渡にも身延にも赴いています。
佐渡には、幼い娘と連れ立って行ったと推測されます。
文永9年(1272年)5月といえば、大聖人が流罪されて半年ほどであり、佐渡から生還できるとは考えられていなかった時期です。
何としても師匠に娘を会わせようと、娘を連れて、険しい山を越え海を渡って佐渡を訪ねたのでしょう。
大聖人は、幼いながら母譲りの健気な信心の乙御前を深く慈しまれました。
翌年の文永10年(1273年)11月に送られたお手紙では、あて名を「乙御前の母」とされて、「乙御前は、どのように成長されたのでしょう。あなたが法華経に尽くされる奉公の功徳は、娘の乙御前の生命を幸いで飾ることでしょう」と仰せです。
さらに建治元年(1275年)8月のお手紙では、あて名を「乙御前へ」と記されて「乙御前は、さぞ大人びてきたことでしょう。どれほど賢くなったでしょう」と結ばれ、その成長を殊のほか喜ばれています。

大聖人は、このお手紙で日妙聖人についてこう仰せです。
「女人は夫を魂とします。夫がなければ女人の魂はないのと同じです。夫のある女人でさえ世の中を渡るのが難しいのに、魂と頼む夫もなくて世を渡られているあなたは、夫ある女人にも勝って、しっかりした信心をしていらっしゃいます」
大聖人は、このように日妙聖人の信心を十分に認められたうえで、さらに強い信心を奮い起して諸天の加護を現すよう励まされます。
その際、「例としては、他を引くに及びません。この日蓮を日本中の人々が害しようとしたが、法華経を信ずる心のゆえに諸天から守護されたのです」と、すべての大難をはねのけた師匠の信心に続くよう促されるのです。

このころ日妙聖人に再婚話が持ち上がっていたようですが、大聖人は「どのような男を夫とされても、法華経に敵対するならば従ってはなりません」と戒められ、「いよいよ強盛の信心をしていきなさい」と重ねて励まされています。

嵐に荒れ狂う海のような社会でした。
強く強く信心の一念を持たなければ、宿命の波に押し流されてしまいます。
強く生き抜くことが幸福であり、強く戦い抜くことが勝利である。大聖人は、その信心を徹して教えられたのでした。

日妙聖人と娘の乙御前が、その後、どのような人生を生きたかは、定かではありません。
しかし、大聖人のお手紙を拝すると、師匠の励ましを胸に抱いて、烈風にも笑顔で生き抜いた母子の笑顔が浮かんできます。

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御書(1316p)に
「十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり」と仰せです。
妙の一字とは、妙法の「妙」の字であり、南無妙法蓮華経の「妙」の字です。

法華経二十八品にはさまざまな法理が説かれていますが、
結局のところ、すべては、この「妙」を表現し、教え、伝えるためなのです。
そして、この「妙」を体得した人が仏となるのです。
ゆえに、法華経があらゆる仏の師なのです。

大聖人が末法の衆生のためにあらわされ、弘められた三大秘法の南無妙法蓮華経は、
まさに万人に、この「妙」の力を会得させる大法なのです。
大聖人は、「法華経題目抄」で、
「開の義」「具足円満の義」「蘇生の義」の、いわゆる「妙の三義」を説かれています。

①「妙と申す事は開と云う事なり」(943p)・・・法華経は諸経の蔵を開く鍵であり、この法華経によってこそ諸経が秘めた財(たから)を生かすことができる。

②「妙とは具の義なり具とは円満の義なり(944p)・・・芥子粒のように小さい如意宝珠(にょいほうじゅ)から一切の宝が現れるように、また、太陽の陽光によってあらゆる草花が開花するように、法華経の一つの文字にはあらゆる法と功徳が具わっている。

③「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがえる義なり」(947p)・・・それまで成仏できないとされてきた、いかなる衆生も蘇生させ、必ず成仏させることができる。

妙法は万法を具した根源的にして円満な法であり(具足円満の義)、すべてのものの本来の価値を開く力がある(開の義)。
ゆえに、いかに行き詰った境遇にある人をも蘇生させ、成仏させていく力がある(蘇生の義)のです。
私たちは南無妙法蓮華経の題目を自行化他にわたって唱えることで、
この「妙の一字」の力を自身の胸中に具体的に現すことができます。
なんと素晴らしい仏法でしょうか。
この「妙の一字」を体得するために、自分自身の仏道修行があります。
広宣流布の活動もその一点にあります。
広宣流布へ不惜身命の覚悟で進むとき、私たちは「妙の一字」の功徳を、
全生命で受け切っていくことができるのです。

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いかなる逆境にあっても、希望がある限り、破れることは断じてない。
希望がある限り、人間は前進し続けることが可能なのだ。

日蓮大聖人の仏法は「希望の宗教」です。
あらゆる苦難を乗り越え、いかなる障魔も打ち砕いていく無限の力が、わが胸中にあることを洞察した「大哲学」である。
そして、その無限の力を一人の人間が現していく「実践と実証」が明らかにされている。
それゆえに、万人の胸中に「希望」を絶えず生み出してゆける力強い宗教なのだ。

この希望の哲学と実践と実証が余すところなく示されているのが「御書」にほかなりません。
御書は、私たちに、無限の勇気と希望を湧きあがらせてくれる光源です。
日蓮大聖人が命に及ぶ大闘争の中で、門下のため、全人類のために、綴り残してくださった「希望の経典」です。

二代会長戸田先生は言われた。
「大聖人は、大病大難を受けられながら、我々に、自分の運命をそこから切り開いていけ!と、教えてくださっているのです。ありがたいことだ。私もその命がけの教育を、大聖人から受けてきました」と。

蓮祖の魂がほとばしるこの御書を、私たちは一行でも二行でも身をもって拝読してまいりたい。「御書根本」「実践の教学」こそ創価学会の伝統です。
御本仏の大生命の律動を拝する思いで、御書を学んでいきたい。

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日蓮大聖人の「御義口伝(おんぎくでん)」には、
「功徳とは六根清浄(ろっこんしょうじょう)の果報なり」
「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」(御書862p)とある。

功徳とは、わが生命を浄化することであり、悪の力を滅し、善の力を生み出していくことが、功徳の本質的なものとして示されている。

日々、仏法を実践した結果、人間としての境涯の変革が起こり、
それが実生活に向上をもたらし、自他共の幸福をめざす人生となっていく。
功徳とは、日常の現実生活に現れる人間革命の結果にほかならない。

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(追伸)
 いつも、コメントを残してくださっている、「すみ」さん、ありがとうございます。まだブログの扱いに馴れてなく、これまでのコメントを今日気がつき、読ませていただきました。大変失礼いたしました。
 また、他の皆様からもいただいたこれまでのコメントは、私自身の大きな励みとなっております。
 おかげさまで、このブログへのアクセスも、日々訪問される方々が増えてきており、開設以来40,000アクセスになろうとしています。
 このブログは、冒頭にも紹介させていただいていますが、私自身の人生における指南を書き記しておく、学びのノートとして開設したものですが、こうして日々多くの方々が訪れ、共感していただくことは望外の喜びです。
 もちろん、批判の目で見られている方もいらっしゃることと思いますが、このノートから、何か一つでも人生のターニングポイントになるものが見つかれば、幸甚です。

日蓮大聖人の御書に、
「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」
(御書1468p)とある。

宗教というからには、まず、基本となる経典がなければならず、
経典に説かれている教義は、道理に適ったものでなければならない。
そして、その教えを実践した場合に、そこに説かれた通りの現証が現れるかどうかが、
宗教の正邪を判断する何よりの基準となる。

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 人身は受けがたし爪の上の土・人身は持(たも)ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くた(腐)して死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそたいせつなれ

(現代語訳)
 人間として生まれることは難しく、爪の上の土のようにまれである。その身を持つこともまた難しく、草の上の露のようにはかない。百二十歳まで長生きして汚名を残して一生を終るよりは、生きて一日でも名をあげることこそ大切である。 

草の上の露

 この御書は、建治3年(1277年)9月、日蓮大聖人が、身延の地から四条金吾に与えられたお手紙で、別名「三種財宝御書」ともいわれています。

 金吾は、主君の江間氏を折伏して怒りをかい、同僚からも主君に讒言されました。その結果、江間氏から法華経への信仰を捨てるよう迫られますが、金吾は強盛な信心を貫きました。

 その後、江間氏が大病を患うと、江間氏は再び、医術に優れた金吾を用いるようになりました。本抄は、そうした状況を報告したことへの御返事です。

 大聖人は、主君の、金吾への信頼の回復が、さらに同僚の嫉妬を招き、金吾が危険に陥ることを心配し、くれぐれも短気から軽率な行動をとらぬよう、具体的に戒められています。

 この御文では、人間の命のはかなさを指摘されたうえで、一日でも生きて「名をあげん事こそ大切なれ」と教えられています。
 「名をあげる」生き方とは、世間的な名聞名利を求めるのではなく、自身を磨き、人のため、社会のために尽くしゆく、人間として価値ある生き方のことです。

 この御文について池田先生は、「限りある一生に、何を残したか。どんな価値を生んだか。どれだけの人を幸せにしたか。どれだけ境涯を広げたかです。私も広宣流布のために、わが尊き同志のために、年を重ねるごとに、一日を一週間にも匹敵させる思いで働いています」と語られています。

 人生の価値は時間の長短で決まるものではありません。「師弟不二」の心で広宣流布に生き抜く人生こそ、最高に誉れある黄金の人生と言えるでしょう。
 

「臨終只今」「臨終正念」を考える際に、
一点、見落としてはならない重要な信心の姿勢があります。

それは、「障魔と戦う」ことです。
「臨終正念」は、「死魔」を乗り越えることでもあるからです。
日頃から、三障四魔との対決を避けている人は、
死魔という越えがたい障魔に到底、打ち勝つことはできない。

「臨終只今」の信心の本質は、魔に蕩(とろ)かされたり、恐れおののいたりしないことです。 
そのために信心を奮い起し、智慧と勇気と生命力を奮い起して、魔と戦うことです。
魔性と戦い、完全に勝利した人が「仏」です。
言いかえれば、仏とは、究極の障魔である天子魔や死魔を乗り越えた存在であり、
不死を得た存在に他なりません。

竜の口

あの竜の口の法難で、四条金吾は死を賭して大聖人をお守りしました。
しかし、最後の瞬間「只今なり」と叫んで泣いてしまった。
師を思う心の故であろうが、師を襲う死魔、天子魔に、弟子の金吾のほうが恐れおののいてしまったのかもしれない。
その時、大聖人が力強く師子吼された。
「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし」(913p)
迫る死に臨んで、仏の生死の極致を一言に表した「臨終正念」のお言葉です。
大聖人は、権力の魔性と戦われ、死魔に打ち勝たれ、天子魔に勝利されました。
その戦う心に仏界が確立するのです。

大聖人は、大難の渦中にいる門下に対して、
「月月・日日につより(強)給え・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せです。
この月月・日日につよる信心は臨終只今の信心に通じる。
すなわち臨終只今の信心こそが、魔を寄せ付けず、打ち破っていく信心なのです。
この臨終只今の対極にあるのが、「たゆむ心」「魔を恐れる臆病」です。

「千仏授手」とあるように、
臨終の時に正念を貫く人には、あらゆる仏・菩薩、諸天善神が瞬時に駆けつけます。
しかし、その根本は、自身の信心によって悪と戦い、善を開く戦いであることを忘れてはならない。
その戦う心にこそ、仏界の生命が涌現していくのです。 

ここでは、前の「臨終只今」と「臨終正念」の内容について、
誤解を招かないように、補足の意味で確認しておきたいことがあります。

一つは、臨終只今とは、当然のことですが、「死」を賛美しているのではないということです。
むしろ「臨終只今」の真意は、生きて、生きて、生き抜くべきことを教えられています。
仏法には、命を粗末にするような殉教主義は断じてありません。
まして、生死(しょうじ)が連続しているからといって、
安直に「現実の苦闘」を避けて、逃避から「死」を選んでは絶対にいけない。
今世における宿命転換を軽視することは、人間の可能性に対する不信です。

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二つ目は、「臨終正念」についてです。
例えば、事故や病気などで亡くなった場合、故人の成仏に不安を感じる方もいるかもしれない。
しかし、「臨終正念」を決定づけるのは、あくまでも「信心」です。
最後まで信心を貫き、悔いなく戦ってきた人は、「仏界の生死」の軌道に必ず入ります。
さまざまな形で死を迎えても、「臨終正念」は間違いない。
戦ってきた福徳の力で、生命においては大勝利の臨終となっていることは、
御聖訓に照らして絶対に間違いがないのです。

涅槃経には
「菩薩が恐れなければならないのは、身の破壊でなく、心の破壊である。
心が破壊されれば、三悪道に堕してしまうがゆえに、信心を破壊する悪知識を恐れよ」
とあります。

広宣流布に戦い、鍛え抜かれた生命が破壊されることは断じてない。
「心の財(たから)」を築いてきた人は、
生死不二(しょうじふに)の成仏の生命がすでに培われています。
その人は、偉大な使命の戦いを貫いた福徳によって、
生を飾り死を飾り、永遠に「仏界の生死」が連続しゆく軌道に入ることができる。

仏法の生死観は、誰もが常楽我浄(じょうらくがじょう)に包まれゆく希望の生死観であり、
三世永遠に前進・勝利していくための生死観であることを強く確信します。
 

日蓮大聖人御書 「生死一大事血脈抄」~抜粋 (現代語訳)

 所詮、”臨終は只今にある” と覚って信心に励み、南無妙法蓮華経と唱える人のことを、普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつぼん)第28には、「この人は寿命が終われば、千もの仏が手を差し伸べ、死後への恐怖を起こさせたり、悪道に堕とさせたりするようなことはしない」と説かれている。
 喜ばしいことに、一仏や二仏ではなく、また百仏や二百仏でもなく、千仏までも迎えに訪れ手をとってくださるというのは、歓喜の涙を押えがたい。
 これに対し法華経不信の者は、譬喩品(ひゆぼん)第3に「その人は命が終わって、阿鼻地獄に入るであろう」と説かれているので、きっと獄卒が迎えに来て、その手を取ることであろう。大変に痛ましいことである。十王にその罪を裁かれ、倶生神(くしょうしん)に責めたてられるにちがいない。
 今、日蓮の弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に千仏が手を差し伸べて迎えてくださるさまは、例えば瓜や夕顔の蔓(つる)がいくつも伸びてくるかのようであると思われるがよい。
 

  妙法蓮華経の受持の極意として、「臨終只今にあり」と究極の信心の姿勢が明かされている。
 千仏に守られる臨終とは、「臨終正念」のことに他ならない。
すなわち、「臨終只今」の信心の人こそが一生成仏の道を歩んでいけるのである。

 臨終とは、「人生の総決算」の場です。
この時、「どう生きてきたのか」が厳しく問われます。
その時に、なんの悔いもなく、自身の人生を深く肯定し、大満足で臨終を迎えられるか。
逆に、後悔と自責の念で人生の終幕を迎えてしまうのか。

 まさに、臨終の時にこそ、その人の生き方そのものが、
何一つごまかしようがなく、この一瞬に凝縮されます。

 したがって、臨終をたとえ今迎えたとしても、雲ひとつない澄み切った青空のごとく、
何一つ悔いや不満がない。そう断言できるように、
どれだけ「今」を真剣に精一杯生きているか、ということが重要になります。

 瞬間、瞬間、「今、臨終になっても悔いがない」と言い切れる覚悟で、
現在を真剣に生きる。それが「臨終只今にあり」という信心だ。

 さらに、臨終は「人生の総決算」であると同時に、
仏法の生死観から見れば、次の「生」への新たな出発となる。
三世の仏界の生死に生きる私たちにとって、
臨終は、まさに次の生への輝かしき出発である。

 臨終は人生のすべてが凝縮した「人生の山頂」であり、
「次の生」を決定づける人生の最も重要かつ厳粛な場となります。
この臨終の時に、いかなる一念を持つか。
悔いなき勝利の「生」は、安穏な「死」を約束します。
そして大満足の「死」が、次の「生」への晴れやかな旅立ちを決定させます。
臨終の時の今世を総括する一念が、どうであるか。
その因が未来の果報をもたらす。ここに「臨終正念」の意義があります

 「臨終正念」とは、死に臨んでも心を乱さず、
正しい念慮(思い・考え)すなわち妙法を信ずる信の一念を、揺るがずに貫くことです。
臨終の時に、妙法を信授できた無上の喜びをもって、
わが人生に悔いがないと満足できる心こそ「臨終正念」の具体的な姿に他なりません。

 「臨終只今」と「臨終正念」の違いを整理しておけば、
今世で生ある時に、臨終という人生の総決算の意味を強く感じ、
”今、臨終を迎えても悔いがない” との覚悟で、
現実の一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことが、「臨終只今にあり」との信心です。

 その意味で、「臨終只今」の信心には、
生命に対する「智慧」があり、智慧に基づく「決断」があり、
智慧と決断によって開かれる晴れやかな「希望と行動」があるといえる。

 日々月々年々に、この「臨終只今」の信心を積み重ねていくことで、
生命を鍛え、磨き抜き、境涯を高めていける。
そして今世の生き方に確信と納得を持ち、
臨終に際しても、悔いなく、妙法を唱えきって、安祥と霊山(りょうぜん)へ旅立っていける。
この荘厳なる境地が「臨終正念」です。

 簡潔に言えば、「臨終只今」の信心の積み重ねが、
人生の総決算として「臨終正念」を完成させていく。
そして、「臨終正念」が次の「生」への豊かな旅立ちを可能にするのです。 

 私たちの生命の中に、肉団の中に、
もったいなくも大聖人と同じ仏という生命があるのです。
これが曇っているが故に仏の生命が出てこない。
罪業に染まっているのです。
それを懸命に磨くことが題目であり、折伏です。

 仏法から見れば、われわれが難を受けるということは、
水に濡れるようなものであり、雨に打たれるようなものです。
あとがさっぱりするのです。

 苦をば苦とさとり 楽をば楽とひらき
苦楽ともに思い合わせて 南無妙法蓮華経とうちとなへいさせ給へ

 苦しいといっても、自分が全部つんできた業です。
因果の法則が仏法です。
苦楽ともに思い合わせて、苦しくても南無妙法蓮華経、
嬉しくても南無妙法蓮華経。
だからどんな人でも最後は皆、南無妙法蓮華経の境涯になるのです。
仏になるのです。

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 誰と心がつながるかによって、人生は大きく左右される。
多くの人は、「あの人のようになりたい」「あの人の言うことなら聞きたい」
というあこがれの対象を無意識にしろ持っている。
その対象にどんな人を選ぶかによって、生き方が全く変わってしまう。
よき人を選べば、それ自体が限りない向上の力となる。
しかし、対象を間違えれば、どんなに努力しても、
そもそも目指す方向が間違っているのだから、不幸な結果に終わってしまうだろう。

 だからこそ、仏法では、修行に際して、どんな人と心がつながっているか、
厳しく見定めるよう教えている。
自分の境涯を向上させる人を善知識、堕落させる人を悪知識という。

 日蓮大聖人は、当時、善知識として尊崇されていた諸宗の僧が、
正邪を転倒して教える悪知識にほかならないと断じられ、
悪知識にだまされている人々の不幸を深く嘆かれている。
「天を地と言い、東を西と言い、火を水と教え、星は月に優れている、蟻塚は須弥山(しゅみせん)を超えているなどと言う学者たちを信じている人々は、仏法を習っていない悪人よりも、はるかに劣っている」と仰せである。

 またこうも仰せである。
「念仏の修行に一心に励む人は尊く見えるが、法華経の眼で見てみると、日々に十悪を犯す悪人より罪が深いのは、こうした善人です。この人は善人のように見えるが、実は悪人なのです。悪人の中でも世界第一の大謗法の者です」

 悪知識にだまされれば、どんなに努力をしても、それが仇となって悪道に堕ちてしまう。
ゆえに、大聖人は、次の涅槃経の文を繰り返し教えられている。
「悪象に恐れを抱くことはないが、悪知識は恐れなければなりません。悪象は身を破っても心は破れないが、悪知識は二つとも破るのですから」

 大聖人は、こうした文を引いて、
「悪知識というのは、へつらい、偽り、媚び、言葉巧みに愚かな人の心を取り込んで、善なる心を破ってしまうのです」とも仰せです。
精神の服従を強いる権力は、身体に危害を加える暴力などよりも、はるかに恐ろしい。
ここに、大聖人が、人びとの「善なる心」を破る聖職者に厳しい批判を向けられた理由がある。

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 では、人々をだます側の悪知識自身の精神の内面はどうなっているのか。
大聖人は、悪知識の典型というべき提婆達多(だいばだった)について興味深い言い方をされている。
「仏は身に三十二相という優れた特質を備えていますが、 提婆は三十相を備え、二相欠けていました。
白毫(びゃくごう)(眉間にある白い巻き毛)と千幅輪(せんぷくりん)(足裏の車輪状の紋様)です。
仏に二相劣っていては弟子たちが軽く思うに違いないと、
蛍火を集めて眉間につけて白毫と言い、鍛冶に菊形を作らせ足裏に焼印をして千幅輪に見せましたが、
足の火傷が大事となって死にそうになったので、仏に助けを求めました。
仏がなでると苦痛はなくなり、ここで悔いあらためると思われましたが、
「釈尊の医術は小賢しいもので、魔術である」などと言ったのです。

 周囲に軽くみられることを恐れ、外見を繕おうと努力する姿は、滑稽というほかありませんが、
堤婆本人は必死なのです。
同じ努力をするなら少しでも自分を高める方向に向ければいいのに、それはしない。
しかも、命を助けられても怨みを捨てない。
むしろ、助けられたがゆえに怨みを募らせる。
そこには、貪り、瞋り、癡かという三毒に翻弄される、惨めな精神の実像が浮かび上がってくる。

  提婆達多は、6万もの法門を諳(そら)んじたが、無間地獄に落ちてしまった。
膨大な法門も、人を救うためで3なく、
自分を大きく見せるための手段にすぎなかったのです。
涅槃経に釈尊滅後の悪僧について、
「外見は賢く善であるように見せているが、内心は貪りと嫉みを抱いている」
と説かれる通り、外と内で巧みに二重の基準を使い分けていることが、悪知識の特徴といえる。

 では、どうすれば、巧妙な悪知識の邪智を見破れるのか。
それには、善知識の中の善知識である、根源の師匠という原点に、常に立ち返り続けることです。
「返す返すも、根本の師匠を間違えずに成仏していくのです」と仰せの通り、
師匠を求め抜く潔い信心を貫き通すことです。

 大聖人は、こうも教えられている。
「雪は、あまりに白いので染めようにも染められません。漆は、あまりに黒いので白くなることはありません。これより移りやすいのは、人の心です。善にも悪にも染められます。邪悪に染められれば地獄に落ち、法華経に染められれば必ず仏になります。心して、法華経の信心を雪や漆のように持たれるのです」

 いかなる悪にも染まらない、すっきりした師弟の信心こそ、三世の勝利の直道なのだ。 

十字(むしもち)御書

「 十字(むしもち)一百まい、かし(菓子)ひとこ(一籠)給い了(おわ)んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め、此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあい(愛)せられ候なり。・・・・・」

 重須どのの女房、このかたは南条時光の姉さんにあたるかたです。
南条家から重須の石河新兵衛熊助(よしすけ)に嫁いでいた。
この女性が、正月を祝って、まず大聖人に御供養申し上げた。 
蒸し餅百枚、菓子(果物)一籠を、わざわざ身延におられた大聖人に届けられた、
その立派な誠心(まごころ)をほめられたのです。 

 元日は一切のはじまりだというのです。
日だの、月だの、春などと、いろいろ出てくるが、
要するに宇宙の運行そのものを指していらっしゃる。
宇宙の運行は、所詮、それ自身慈悲なのです。つまり、妙法であります。
正月というのは、平常忘れてしまっている、そのようなことを自覚することだ。
地球は、365日で太陽の周囲を一回転する。
これは誰かが命じたものでも、仕組んだものでもない。
気づこうと気づくまいと、厳然たる宇宙の運行である。宇宙の法則であり、リズムです。

 地球が、宇宙の惑星の一つなら、われわれ人間も、おなじだ。
宇宙のなかで、人間という一つのものだ。
人間の活動といったところで、宇宙のリズムある法則から免れることは絶対にできない。
このことを度外視して、いくら努力してもはじまらない。
ある場合は、一生懸命逆行している時もある。
こうした微妙な一種の不調和が、生活に現れる時、人間は不幸を感ずるわけだ。
このような法則を、生命という分野から、
根本的に事実として説かれているのが、大聖人の仏法です。

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 だから、これがわかってしまえば、我即宇宙であり、宇宙即我ということになる。
いつか、どこかの科学者が、人間は一個の小宇宙なり、と言ったことをおぼえている。
しかも、これは観念の世界にあるのではない。真実のこの世界にあるというのです。

 この事実を、われわれ凡人が、いくらかでも感得するのは、正月だけらしい。
地球が一回転の公転を終えて、次の公転にかかる時、それが正月である。

 人々は、正月になると、自然に改まった気持ちになり、今年こそは、と決意する。
今年こそはが、年々歳々つづいて、人の一生ということになるのだが、
妙法を受持しない人は、根本的に宇宙運行のリズムに乗ることができない。
脱線したまま走っているような人生になるのは、当然の理(ことわり)なのです。
だが、われわれは、御本尊を受持し、妙法を唱えることができた以上、
意識しようがしまいが、脱線した人生から起ちあがって、
宇宙運行のリズムの軌道に、ちゃんと乗ることができるのです。

 おなじ今年こそは、という決心でも、
この信心をしているものと、していない人とは、天地水火の違いがあることがわかるだろう。
今年こそは、と決心した時、われわれは、その証拠を、その年の自分の生活に必ず出すことができる。
だから、本年も相変わらずなどといっては、だめなのだ。


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日蓮大聖人は
「十方の諸仏は妙の一字より生じ給える故なり」と仰せです。
「妙の一字」とは、妙法の「妙」の字であり、
南無妙法蓮華経の「妙」の字です。

法華経二十八品にはさまざまな法理が説かれていますが、
結局のところ、すべては、この「妙」を表現し、教え、伝えるためなのです。
ゆえに、法華経があらゆる仏の師なのです。

日蓮大聖人が末法の衆生のためにあらわされ、
弘められた三大秘法の南無妙法蓮華経は、まさに万人に、
この「妙」の力を会得させる大法なのです。

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日蓮大聖人は、「法華経題目抄」で、
「開の義」 「具足円満の義」 「蘇生の義」の、
いわゆる「妙の三義」を説かれています。

①「妙と申すは開と云う事なり」・・・法華経は諸教の蔵を開く鍵であり、
 この法華経によってこそ諸教が秘めた財(たから)を生かすことができる。

②「妙とは具の義なり具とは円満の義なり」
 芥子粒のように小さい如意宝珠(にょいほうじゅ)から一切の宝が現れるように、
 また、太陽の陽光によってあらゆる草花が開花するように、
 法華経の一つの文字にはあらゆる法と功徳が具わっている。

③「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがえる義なり」
 それまで成仏できないとされてきた、いかなる衆生も蘇生させ、
 必ず成仏させることができる。

妙法は万法を具した根源的にして円満な法であり(具足円満の義)、
すべてのものの本来の価値を開く力がある(開の義)。
ゆえに、いかに行き詰った境遇にある人をも蘇生させ、
成仏させていく力がある(蘇生の義)のです。

私たちは南無妙法蓮華経の題目を自行化他にわたって唱えることで、
この「妙の一字」の力を自身の胸中に具体的に現すことができます。

この「妙の一字」を体得するために、自分自身の仏道修行があります。
広宣流布の活動も、その一点にあります。 



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