中等部が結成されて、きょうで53周年になる。
53年前のきょう、私はその中等部第1期生として、
晴れの結成式式場にいた。
東京の日比谷公会堂で開催された、「少年少女の集い」が、
結成式であったと記憶している。
この「少年少女の集い」には、
当時の秋谷青年部長が、先生のメッセージをもって参加していた。
この結成当時の中等部員は、支部で1名の代表が選ばれての中等部員だった。
選抜の基準は、朝晩の勤行がきちんとできていること。
学校での成績が優秀であること。幹部の家の子であること。
確か、こういった基準があった。
私の家は、当時、星川支部であったのか、鹿島田支部であったのか、
私の記憶が定かではないが、
この当時は中学生になると同時に、男子部員となっていた。
所属する部隊は、339部隊と今でもはっきり覚えている。
中等部員会は月に1回開催され、神奈川方面の中等部の部員会は
神奈川本部か、後に理事長になられた、鶴見市場の森田宅で開催されていた。
部員会には、当時発行されていた「希望の友」という月刊誌を持って、
それを教材にして、さまざまなことを学んだ。
御書や、大白蓮華のときもあった。
この年、教学部任用試験も行われ、助師として教学部員にもなっている。
また、この年の夏には、中等部の第1回夏季講習会も開催され、参加している。
大客殿での池田先生の御書講義、
塔の原グラウンドでの先生達とのソフトボールの試合が、懐かしく思い出される。
往路は神奈川本部からバスであったが、復路は、池田先生の計らいで、
沖縄のメンバーを輸送してきた登山輸送船「富士丸」に乗船し、
横浜の大桟橋まで送っていただいた。
東京のメンバーや、音楽隊も一緒で、彼らは晴海埠頭まで行く。
下船をした、我々神奈川のメンバーは、大桟橋で紙テープでつながれた彼らに手を振り、
音楽隊の「錨を上げて」の演奏とともに、
互いに、かならず成長していこうと誓いあった。
こうして私は、学会子として創価の庭で育てられてきた。
子どもの頃、「線香臭い!」と友達たちからけなされ、
心ない大人に、わざと水をかけられたり、どこから飛んできたのか、
石を投げつけられたこともあった。創価学会批判が激しい頃であった。
今、私は自分の住む地域の、町内会の副会長をさせていただいている。
皆、私が創価学会員であることを知っている。
数年前に、私が学会員であることを知った一部の役員は、
「あんた、創価学会だったのか」「これから付き合い方も考えさせてもらう」
「そのうちに町内会が、創価学会に乗っ取られるぞ」
そういっていた人たちも、今では言わなくなった、
「自分が大人げなかった、許してほしい」と言ってきた人もいる。
座談会に、友人参加をしてくださる人も出てきた。
前回の統一地方選での市議会選挙の出陣式には、
町内会長が、応援の挨拶もしてくれるようになった。
私が、創価の庭で師匠池田先生から学んできたこと、
それは一貫して、人としての”振る舞い”であった。
言葉ではない、人は、その人の姿、振る舞いを見ている。
その振る舞いこそが、人間革命の証と確信している。
53年前のきょう、私はその中等部第1期生として、
晴れの結成式式場にいた。
東京の日比谷公会堂で開催された、「少年少女の集い」が、
結成式であったと記憶している。
この「少年少女の集い」には、
当時の秋谷青年部長が、先生のメッセージをもって参加していた。
この結成当時の中等部員は、支部で1名の代表が選ばれての中等部員だった。
選抜の基準は、朝晩の勤行がきちんとできていること。
学校での成績が優秀であること。幹部の家の子であること。
確か、こういった基準があった。
私の家は、当時、星川支部であったのか、鹿島田支部であったのか、
私の記憶が定かではないが、
この当時は中学生になると同時に、男子部員となっていた。
所属する部隊は、339部隊と今でもはっきり覚えている。
中等部員会は月に1回開催され、神奈川方面の中等部の部員会は
神奈川本部か、後に理事長になられた、鶴見市場の森田宅で開催されていた。
部員会には、当時発行されていた「希望の友」という月刊誌を持って、
それを教材にして、さまざまなことを学んだ。
御書や、大白蓮華のときもあった。
この年、教学部任用試験も行われ、助師として教学部員にもなっている。
また、この年の夏には、中等部の第1回夏季講習会も開催され、参加している。
大客殿での池田先生の御書講義、
塔の原グラウンドでの先生達とのソフトボールの試合が、懐かしく思い出される。
往路は神奈川本部からバスであったが、復路は、池田先生の計らいで、
沖縄のメンバーを輸送してきた登山輸送船「富士丸」に乗船し、
横浜の大桟橋まで送っていただいた。
東京のメンバーや、音楽隊も一緒で、彼らは晴海埠頭まで行く。
下船をした、我々神奈川のメンバーは、大桟橋で紙テープでつながれた彼らに手を振り、
音楽隊の「錨を上げて」の演奏とともに、
互いに、かならず成長していこうと誓いあった。
こうして私は、学会子として創価の庭で育てられてきた。
子どもの頃、「線香臭い!」と友達たちからけなされ、
心ない大人に、わざと水をかけられたり、どこから飛んできたのか、
石を投げつけられたこともあった。創価学会批判が激しい頃であった。
今、私は自分の住む地域の、町内会の副会長をさせていただいている。
皆、私が創価学会員であることを知っている。
数年前に、私が学会員であることを知った一部の役員は、
「あんた、創価学会だったのか」「これから付き合い方も考えさせてもらう」
「そのうちに町内会が、創価学会に乗っ取られるぞ」
そういっていた人たちも、今では言わなくなった、
「自分が大人げなかった、許してほしい」と言ってきた人もいる。
座談会に、友人参加をしてくださる人も出てきた。
前回の統一地方選での市議会選挙の出陣式には、
町内会長が、応援の挨拶もしてくれるようになった。
私が、創価の庭で師匠池田先生から学んできたこと、
それは一貫して、人としての”振る舞い”であった。
言葉ではない、人は、その人の姿、振る舞いを見ている。
その振る舞いこそが、人間革命の証と確信している。