常楽我浄の ”常” とは、私たちの生命は三世常住です。永遠の生命であるということです。
小乗経、爾前経は、その反対の諸行無常であり、永遠ではないと説いています。
したがって、ずっと低い教えになります。

一般に、世間の社会観、人生観というものを見ても、永遠の生命などということは、ほとんどの人は考えていないのではないでしょうか、行き当たりばったりの人生です。
ですが、よく考えてみると、悪いことをしてはいけないという気持ちは誰にもあります。
生命がこの世限りで泡のように消えてなくなってしまうのであれば、悪いことを、したいだけして、人生一巻の終わりとして、死んでしまえばいいことになる。
しかし、人間は誰しも、最後には良心の呵責にあって、そんな無責任なことはできません。
ということは、無意識のうちに、生命が永遠だということを感じているのだと言えるのではないかと思います。

”楽”とは、楽しむということです。
すなわち人間は、この地球上に楽しむために生まれてきたということです。
今は、考えてみると、夫婦げんかをしたり、借金に追われたり、あるいは病気で苦しんでいたり、家族のことで悩んでいたりと、まるで苦しむために生きているようなものかもしれません。
まさに現実は、個人も、一家庭も、社会全体も暗いことばかりかもしれません。
ですが、本当の人生は、そうではない。
楽しみに来たというのが、”楽”なのです。
ただしその、”楽”といっても、現在の多くの人たちは、たいてい、ただの快楽を求めているにすぎません。刹那主義です。人を殺しても、押しのけても、一瞬だけでも自分が楽しくあればいいといった、瞬間的快楽しか追っていないのが現状ではないでしょうか。

そうではなくて、しみじみと”この世に生まれてきてよかった、ああいい家庭だ、楽しい人生だ、幸福だなあ”という個人であり、そしてまた一家であり、社会でなくてはなりません。

”我”とは、幸・不幸を感ずる生命それ自体であります。
この生命自体は、つねにいろいろな欲望を達成していきたいとの思いにかられています。
”我”がなくなり、自己を満足すべき生命がなくなってしまったら、楽しみがありません。
小乗経では、灰身滅智(けしんめっち)といい、欲望というものを、精神的にも肉体的にも離れよ、と説いています。
しかし、日蓮大聖人の仏法は、煩悩即菩提、生死即涅槃で、平たく言えば、たくさんお金をもうけたり、美味しいものを食べていいのです。
この欲望充足を求めてやまぬ生命それ自体が、”我”であります。
人間の生命というものは、もともとそういうものといえるのです。
最高度に強い、”我”をもち、この地球上の楽しみを、この生命を感受していっていいのです。誰に遠慮することはないのです。

つぎに、”浄”とは、それであって、しかも清らかな生命であるということです。
南無妙法蓮華経は仏界ですから、御本尊を持ったならば、どんな濁った世の中にあっても、清らかな生命活動をしきっていける。これが、”浄”なのです。
現在の人々の生命は濁りきっています。
その証拠に、正しいものを正しいとみない。正しい仏法を信じようとしない。そのために、ますます生命が濁って不幸になっています。
したがって、世の中を幸せにしていくためには、まず、妙法によって各人が人間革命され、”常楽我浄”にならなければなりません。
それを根底として、やがて世界も、国家も、民族も”常楽我浄”になるというのが、私たちのなさんとする広宣流布なのです。

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