フランスの共産党は、「自由の宣言」のなかで、宗教に関する全き自由を謳い、イタリアの共産党は、バチカンとの共存を志向している。
資本主義国の共産主義者たちは、宗教について、新たなる次元に立って、思考せざるを得なくなりつつある。現実の厳しさは、いつか人間の知恵の発動を促すのであろう。

宗教に関する現代の無知は、あらゆる現代の無知のなかで、最大のものの一つではなかろうか。碩学マルクスでさえ、はなはだ杜撰であった。
さまざまな宗教の功罪について、また、その高低浅深について、深く思いをいたす現代の識者は皆無に等しい。この事実は、現代社会における、最大の不幸の一つといってよい。現代の人間の不幸の根が、実は、このような無知にあることを、人々は、ほとんど気がついていないのである。

宗教を論じるからには、何よりも、その宗教の本質をまず問うべきである。信じるものが、なんでも良いとは断じて言えないことは、日常の飲む水が、水なら、どんな水でもよい、などと言えないと同様である。選択は、宗教に関しては、ことに厳しくなければならない。人生に深くかかわるからである。

戸田先生は、この理を、日蓮大聖人の仏法によって初めて知り、救世の原理として弘教する使命を、わが身に課した。さまざまな宗教の中で、アヘンのような作用をする宗教が、いかに多いかを知っていた。
したがって、戸田先生が宗教と言い、仏法という時、生命の法則の実在を信ずるところから語っている。つまり、生命という、不可思議な実在の次元から語ったのである。そして、仏法の歴史の上から、また、実践と実証の上から、生命の法則を、すなわち、日蓮大聖人の仏法を解了したのである。

戸田先生は、この仏法を、人々にわかりやすい表現として、生命の科学と言ってもよいとまで公言してはばからなかった。この本源的な法則の見地から、宗教がもたらす結果について、極めて峻厳にならざるを得なかった。教えが誤っていれば、人々は、それに惑わされ、誤った人生を歩むよりほかないからである。

また、戸田先生は、この仏法の視点から、あらゆる社会現象を見ていた。仏法でいう一念の歪み、つまり、ある瞬間の生命の歪みによって、どのような影響を及ぼすかを見極めていた。
たとえば、科学そのものには正邪はないが、科学する者、科学を操作する者の生命状態によって、正邪が生じるのである。その生命の状態、ある瞬間の一念が、原水爆の悪魔的災害さえも生むのである。時代は、一年の狂いが、人類の絶滅さえ起こしうるところまで来てしまった。

「仏」の対極にあるものを「魔」という。「魔」とは、能奪命者、殺者とも訳され、心を悩乱させ、仏道を妨げ、さらに、生命の力を奪い、破壊させていく働きである。そして、それが、人間を支配しようとする野心や欲望ともなるのである。この「魔」も、もともと生命の内に潜在しているものなのである。

仏法では、人間社会の不幸、苦悩、そして、混乱と破壊の奥に、この「魔」の発動があることを、深く見極めてきた。
理性や道徳が、「魔」の抑止力たり得ないことは、数々の歴史の例証を持ち出すまでもなかろう。ヒトラーが見せた悪魔的天才ぶりは、そのすべてを語って余すところがない。

戸田先生は、現代人の多くが、政治体制など、自身の外の変革に眼を奪われ、肝心の自身の内なる変革に思いを致してこなかったことが、宗教への無知や偏見をもたらしていることを、青年たちに教えておきたかった。
宗教に関する恐るべき無知は、自由主義社会にあっても、社会主義社会にあっても、いささかも変わりはない。ただ、宗教活動の自由については、はるかに自由主義社会のほうが束縛がない。

凱旋門