政治と宗教の問題は、社会主義体制のもとにあっては、鋭く対立せざるを得ない。
政治権力による宗教抑圧政策は、日蓮大聖人の仏法といえども、その対立を危うくさせるにいたるだろう。

日蓮大聖人は、当時の既成仏教を破折されたが、マルクスも宗教をアヘンとして批判した。
一脈相通ずるものがないとはいえないが、マルクスは、ヨーロッパ文明の背景であるキリスト教、なかんずくプロテスタンティズムに焦点を当てて、それをもって宗教一般を批判してしまった。
大聖人は、宗教の正邪の識別を叫ばれ、誤った宗教の根絶を念願とされた。
しかし、マルクスに、宗教について十分な知識があったとは思えない。

もしも、マルクスが、大聖人の仏法を知っていたとしたら、マルクスは、あのような性急な結論は下さなかったに違いない。
また、もし、マルクスが大聖人にあって話し合ったとしたら、おそらく三歩下がって敬服したに違いない。マルクスともあろう人物が、それくらいのことを気づかぬはずはない。
残念なことだが、マルクスは、大聖人の仏法の存在を知らずに、宗教を批判していた。

一口に宗教といっても、大聖人の仏法と、他の宗教とは、根本的に違う。
マルクスの信奉者は、このことを考えようともせず、彼の宗教否定の言説を、ただ信奉しているだけになっている。
しかし、人類の運命が危機に遭遇し、切羽詰まったら、人間の知恵は、やがて大聖人の仏法に帰着するに違いない。

カール・マルクスは1844年、パリで「独仏年誌」に「へーゲル法哲学批判序説」という小論を発表した。この小論は、彼の宗教観を知る著名な論文となったが、彼が、いったい、どの程度、宗教というものを理解していたかを、つぶさに知ることも、また可能である。
彼が、この小論で「宗教」という時、ドイツのキリスト教に焦点を当てて論じていることは明らかである。たとえば、マルチン・ルターの宗教改革を、かなり正確に認識し、結局、理論的な変革にすぎなかったとしている。

「ルターはたしかに帰依による隷属を克服したが、それは確信による隷属をそのかわりにもってきたからであった。彼は権威への信仰を打破したが、それは信仰の権威を回復したからであった。彼は僧侶を俗人に変えたが、それは俗人を僧侶に変えたからであった。彼は人間を外面的な信心から解放したが、それは信心を人間の内面のものとしたからであった。彼は肉体を鎖から解放したが、それは心を鎖につないだからであった」

このプロテスタンティズムに対するマルクスの批判は、宗教改革が、いかにラジカルに見えようとも、僧侶の頭から生まれたものであったがゆえに、そこに限界があり、現代は哲学者の頭から始まらなければ、真の改革はあり得ぬとするのである。

そこで哲学者マルクスは、宗教を現実の不幸の表現として、まずとらえる。
そして、人間が、辛い不幸な現実からの脱出を、空想的に考えざるを得なくなったとき、幻想としての宗教を生み出すとする。

「宗教は、人間存在が真の現実性を持たない場合におこる人間存在の空想的な実現である」
マルクスが、人間存在の現実性という時、必ずしも、人間を全体的にとらえているとは言いがたい。
肉体と心を持つ人間、物質と精神とをもつ人間を、この哲学者は、完全にとらえていないところから発想している。

「人間といっても、それは世界のそとにうずくまっている抽象的な存在ではない。人間、それは人間の世界のことであり、国家社会のことである。この国家、この社会が倒錯した世界であるために、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである」

マルクスの所説を整理すれば、人間の世界=国家・社会となり、国家悪・社会悪が悪しき意識たる宗教を生むということになる。
われわれは、確かに国家・社会に生きているが、それがすべてではない。
同時に、宇宙のなかにも、自然のなかにも生きており、歴史のなかにも、人間精神の世界のなかでも、呼吸している生物である。誰が、いったい人間の世界を、国家・社会に限定することができよう。

生命という、色もなく、形もなく、宇宙に遍満しているものは、すべての人間のなかにも実在している。哲学者マルクス自身にも、生命あるいは生命の働きというものは疑いもなく実在しているといってよい。
生命の実在は、決して空想ではない。
人間存在の現実性は、この生命の働きそのものであることを忘れてはならない。
マルクスは、そうした人間生命の全体像を見ることなく、国家・社会の中にのみ人間の世界を還元してしまった。
なるほど、マルクスも、人間の生活を、自然から物を奪取する生産に基礎を置いている限り、自然を度外視しているわけではない。
しかし彼は、人類の発展を、生産力と生産関係にあると規定し、そこに国家・社会の弁証法的歴史的発展を見て、彼の階級理論に、人間をことごとく繰り入れてしまった。
自然や、宇宙や、精神との人間の関係は、いつか脱落して、人間の世界を、国家・社会の次元に還元して、理論を進めざるを得ない。

この概念規定のうえに、彼は、宗教批判を始めてしまった。
一見、どんなに彼の所論が明快に見えようとも、偏ったその着想は、ついに結論においても、杜撰であることを免れることはできない。


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