昭和29年の秋ごろから、戸田先生の思索には、彼をとらえて離さぬ大きな構想があった。
その構想は、彼の頭のなかで、重苦しいまでに膠着して、深く根を張り、
いつか新鮮な芽となって萌え始めていた。

その構想とは、広宣流布の伸展にともなう段階において、
いつかは展開しなければならない新しい展望への実践であった。
彼は、この実践を、今、踏み切るべきか、
それとも先に延ばすかという決断に、自ら迫られていた。

” 時は来ている ”
彼は、ある時、決然と思った。

” いや、次期尚早だ、まだ十八万世帯にすぎぬではないか。慎重を期すべきだ・・・ ”
戸田城聖は、深い思いに沈んだ。

彼は、統監部長に命じて、全国の学会員の詳細な分布図を作成させた。
東京都を中心とした関東地方が、最も色濃く染められていた。
それから東北地方の仙台と秋田、北海道の函館、関西の堺、九州の八女などが、
比較的に学会員の密集地帯であることが判然とした。

それから彼は、前回の全国地方統一選挙の詳細なデータを取り寄せて、
統監部の手によって全国学会員の分布表と照合させてみた。
概略の照合ではあったが、全国数十カ所にわたって丸印がついた。
丸印というのは、その地域で、もしも、学会員のなかで適当な人物が地方選挙に立候補し、その人物のために、その地域の学会員が応援したとしたら、
当選圏に入る可能性を含む箇所のことであった。
このような地域が、いつかできていたのである。
状況はまさに、彼に決断を、ひそかに迫っているといってよかった。

広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。
御本尊を受持して信心に励んだ人は、
まず、人間として自己自身を革命するのは当然のことだ。
革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。
このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。
いや、地域社会ばかりではない。
それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。

政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。
それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、
来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
これが妙法の広宣流布の活動というものだと、戸田城聖は、心に期していた。

彼は、しばしば、このような展望を、率直に人びとに語ったが、
聞く人は、それを、ただ夢のように聞いていた。

だが、彼が会長に就任して、本格的な広宣流布の活動を始めてから、
わずか4年にして、彼の展望の若芽が、すでに萌え始めていたのである。

そこで戸田は、まず、1954年(昭和29年)11月22日、文化部の設置を発表した。
戸田は、さまざまなデータを検討し、構想を練った。
そして、その構想の若芽を放置して枯らすことなく、育ててみようと、彼は決意したのである。
厳密な調査が進むと、創価学会員の全国分布図の上に、丸印は四十カ所余りにも達した。
意外な数である。
「ほう、こんなにあったか。あとは人の問題だな。私利私欲に目もくれない高潔な人材がいればいいわけだ」

活躍の場はある。しかし、人がいない。
文化部の前途は、まことに暗澹たるものだ。

人選の作業は、厳正な比較対照にカギがある。
私心や感情を去って、あくまでも目的に適った候補者は誰だろうと考える時、
幾人もの候補者を比較しているうちに、やがて適任者が浮かび上がってくる。
事は急を要した。
30年の4月に入れば、統一地方選挙が始まる。

各地域における人選も徐々に固まり、54人の文化部員の任命が、
昭和30年2月9日夜、本部2階広間で行われた。

新たな展開である。
戸田城聖は、まだ力は未知数の54人の文化部員を前にして、その出立を激励した。
言葉は短かったが、彼の万感が込められていた。

「真実の仏法を実践する人は、その資質を活かし、必然的に、社会にその翼を伸ばすことになる。いよいよ時が来たんです。諸君は、妙法を胸に抱きしめた文化部員であることを、いつ、いかなるところにあっても、忘れてはなりません。民衆のなかに生き、民衆のために戦い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望しているんだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している。立派に戦いなさい。私は、何があっても応援しよう。今後、どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生き抜いていきなさい。ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!」

新しい分野に巣立つ54人の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。
それは、激励とも思われたが、また、新しい門出への惜別の言葉とも響いた。
彼らは、二か月先に迫る初陣を思い、不安と焦慮のなかにあった。
しかし、戸田が、これまで厳愛を持って自分たちを育んでくれたのは、
「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451p)であったことを、
しみじみと悟のであった。
彼らは、断じて戸田の期待にこたえようと、こぶしを握り締めて心に誓ったのである。
そして、勇んで厳冬の街に出ていった。

それから一カ月過ぎた3月8日、文化部員13人の追加任命があった。
これは、現職の教育者や、経済人で、長年にわたって、戸田の膝下で薫陶を受けてきた幹部たちであった。
第二次の文化部員の任命は、教育界や経済界に対する、戸田城聖の最初の布石といってよかった。

もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。
日蓮大聖人の仏法が、行き詰った現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、
この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。
社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、
水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、
政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、
ほとんどいなかったといってよい。
戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、
歓喜するにすぎなかった。

そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた池田先生だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの心労を、戸田とともに分かち合っていたのである。
構想が未聞であっただけに、辛労の質もまた未聞であった。

文化部の活動に踏み出した、この最初の一歩は、まさに歴史的にも、画期的な第一歩であったといってよい。

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