昭和29年頃、創価学会の会員が、全国規模で激増し、毎月一万世帯前後の入会者を数えるようになると、世間は、いわゆる「折伏」を問題にし始めた。
使命感に生きる会員の救世の情熱は、惰性に沈んでいた既成宗教には、とうてい理解されるところではなかった。
また、宗教活動を営利的に利用することを事とした、戦後、雨後のタケノコのように発生した新宗教も、創価学会の華々しい折伏によって、自宗の教勢が、日に日にそがれていく現実を目の当たりにし、さまざまな中傷と策動を始めたのである。
創価学会の再建当時から、青年部の有志は、随時、他宗の寺院や本部などに出向いて法論に挑み、他宗の幹部の心胆を大いに寒からしめていた。
青年たちは、戸田城聖に短日月のうちに教授された日蓮大聖人の仏法が、法論のたびに向かうところ敵なしという結果を重ねるのを、身をもって知るに及んで、彼ら自らがまず驚いた。彼らは、大聖人の仏法の正しさを、法論によって、まざまざと実感したのである。彼らは、生涯の使命と目的を、広宣流布という未聞の大事業に委ねて悔いない覚悟を強くした。
この青年部有志の、他宗との法論闘争を、戸田は、奨励したわけではなかったが、青年たちが、大聖人の仏法の正統さを知る、最も直接的で有効な手段として見ていた。
僧侶という、一生を宗教にかけた専門家が、法論に敗れても、なお平然として改宗もしないでいることが、青年たちには、まことに不思議であった。
”いくら法論に勝っても、これでは広宣流布の道は少しも進まない。どうしたらよいのか”
彼らの一人は、戸田に質問しないではいられなかった。
「いくら法論闘争しても、一人の僧も改宗させることができません。明らかに非を悟っていながら、日蓮大聖人の仏法に帰依しようともしないのは、どういうわけですか」
戸田は、にっこり笑って、いきり立つ青年たちに諭すように言った。
「君たちも気がついたか。現代の宗教が、どんなに堕落しているかという明確な証拠です。末法とはよく言ったものだ。昔は、まだ法論にはルールがあった。負けた者は、勝った者の宗旨に改宗することをかけて法論したものです。真剣勝負だった。
今は、負けても負けたと言わない。恐るべき狡猾さが身について、それが処世術になっているのが、現代の宗教界といってよい。その証拠に、人を不幸にこそすれ、一人の人さえ救うことができないではないか」
「すると、いったい広宣流布は、どうしたらできるのでしょうか。他宗の僧一人も改宗させることができないようでは・・・・」
「そこだよ。現代の広宣流布は、不幸な民衆一人ひとりを救っていく活動です。辛抱強く、一対一で、日蓮大聖人の真の仏法を説き、納得させて、一人が一人を救っていく以外に方法はない。これが創価学会の使命とするところの実践活動です。
では、なぜ、ぼくが青年部に法論闘争を許しているのかと、君たちは思うだろう。それは君たちのためなのだ。君たちに、日蓮大聖人の仏法が、いかに正統で、すごいものかということを、わからせたいためです。
そうじゃないか。ぼくが、いくら真の仏法のすごさを説いても、君たちが疑っていたら仕方がない。実際に他宗と比較してみれば一目瞭然となる。それには、法論を、ちょっとでも挑んでみれば、すぐわかることだ。法論闘争は、君たちの信心を強固にするために許しているんです」
事実、散発的な法論闘争が、随所でいくら行われても、他宗の僧侶や幹部は、内心の狼狽はともかく、世間的には微動だにもしなかった。
青年部の有志たちは、青年らしいため息をついて、現代の宗教の醜態を知り、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、いよいよ知るのであった。
ところが、1954年(昭和29年)頃になると、活発な折伏活動が全国にわたって展開されるに及び、他宗の寺の檀家のなかで、離檀する人が続出するという現象が各地に起きた。地方の、ある寺では、年間30軒の檀家が、創価学会に入会して寺を離れていった。もし、この事態が続くものとすると、数年経たないうちに、寺の経営は成り立たなくなることが自明である。
他宗の住職たちは騒ぎ出した。宗教上の問題というより、まず生活が脅かされたからである。彼らは、墓地への埋葬を拒否するという挙に出たために、それが法律問題となった。さらに、彼らは地方の新聞に訴えて、中傷を創価学会に加えたのである。
彼らは、宗教としての建前上、檀徒の改宗離檀の問題を、さすがに生活基盤の侵害としては公言できなかった。
そこで彼らは、宗教団体を管轄する文部省に、創価学会が暴力的宗教団体ででもあるかのように、訴えたのである。
文部省宗務課は、各府県に連絡して実態調査を始めなければならなかった。創価学会の活動が、果たして宗教法人法第81条にある「公共の福祉を害する」にあたるかどうかを問題としたのである。
今日からすれば、笑うべきことであるが、当時、忽然と社会に頭角を現し始めた創価学会は、全くの誤解と曲解による敵意につつまれていたといってよい。
たとえば、ある新聞に、「信仰相談」という欄があり、週3回、投稿質問に対し、回答を載せていた。4月下旬ごろから、しばしば、創価学会に対する一方的な中傷を取り上げ、学会の指導は、すべて迷信の妄想などと回答していた。
回答者は、老子の思想を基調とした、宗教的な小さな団体を主宰する人物であった。彼は、日蓮大聖人の仏法を研究した痕跡すらない男であったが、新聞の回答者としての客観的地位を利用して、あらゆる誹謗を続けていた。彼自身も、既に折伏を受け、感情的な反発を回答に流し込んでいたのである。
青年部の有志は、これを黙視することはできなかった。直ちに新聞社と回答者に、直接、抗議し、回答者と法論の末、今後、創価学会を迷信、邪教呼ばわりしないことを約させ、一札を取った。しかし、回答者は、露骨な敵意を、その後も改めることはなかった。
また、地方の新聞のなかには、8月の夏季地方指導での折伏をきっかけに、無認識な批判をでかでかと掲げて中傷するものが出てきた。9月になると、ある新聞が、3面トップに大きく中傷記事を載せたのをはじめ、やがて全国紙も学会のことを取り上げ、批判するようになった。
さらに宗教団体の機関紙でも、大々的に創価学会を批判しだした。ある宗派では、9月5日、僧百数十人を集めて、創価学会対策の会合を開いた。そして「創価学会の妄説に惑うな」と大きな見出しを付けた機関紙の臨時増刊号を発行して、同派の全寺院に配布したのである。
こうした事態に対して、戸田城聖は、泰然自若として、笑って言うのであった。
「いよいよ御書に説かれた道門増上慢が出始めたところだよ。つまり三類の強敵のうち、第二類の道門増上慢が約束通り出てきただけの話だ。
これまでは、第一類の俗衆増上慢といって、家庭や職場や、知人、友人などからの中傷批判であった。そのなかで諸君は立派に信心を貫いてきたわけです。
今度は、他宗の僧や新聞が騒ぎ始めたところだ。何も驚くことはない。われわれの広宣流布の活動の途上で、来るべきものが、当然、来たというだけだ。これはむしろ喜ぶべきことです」
批判中傷は、喜ぶべきことだと聞かされた会員たちは、キョトンとしていた。
<続く>
使命感に生きる会員の救世の情熱は、惰性に沈んでいた既成宗教には、とうてい理解されるところではなかった。
また、宗教活動を営利的に利用することを事とした、戦後、雨後のタケノコのように発生した新宗教も、創価学会の華々しい折伏によって、自宗の教勢が、日に日にそがれていく現実を目の当たりにし、さまざまな中傷と策動を始めたのである。
創価学会の再建当時から、青年部の有志は、随時、他宗の寺院や本部などに出向いて法論に挑み、他宗の幹部の心胆を大いに寒からしめていた。
青年たちは、戸田城聖に短日月のうちに教授された日蓮大聖人の仏法が、法論のたびに向かうところ敵なしという結果を重ねるのを、身をもって知るに及んで、彼ら自らがまず驚いた。彼らは、大聖人の仏法の正しさを、法論によって、まざまざと実感したのである。彼らは、生涯の使命と目的を、広宣流布という未聞の大事業に委ねて悔いない覚悟を強くした。
この青年部有志の、他宗との法論闘争を、戸田は、奨励したわけではなかったが、青年たちが、大聖人の仏法の正統さを知る、最も直接的で有効な手段として見ていた。
僧侶という、一生を宗教にかけた専門家が、法論に敗れても、なお平然として改宗もしないでいることが、青年たちには、まことに不思議であった。
”いくら法論に勝っても、これでは広宣流布の道は少しも進まない。どうしたらよいのか”
彼らの一人は、戸田に質問しないではいられなかった。
「いくら法論闘争しても、一人の僧も改宗させることができません。明らかに非を悟っていながら、日蓮大聖人の仏法に帰依しようともしないのは、どういうわけですか」
戸田は、にっこり笑って、いきり立つ青年たちに諭すように言った。
「君たちも気がついたか。現代の宗教が、どんなに堕落しているかという明確な証拠です。末法とはよく言ったものだ。昔は、まだ法論にはルールがあった。負けた者は、勝った者の宗旨に改宗することをかけて法論したものです。真剣勝負だった。
今は、負けても負けたと言わない。恐るべき狡猾さが身について、それが処世術になっているのが、現代の宗教界といってよい。その証拠に、人を不幸にこそすれ、一人の人さえ救うことができないではないか」
「すると、いったい広宣流布は、どうしたらできるのでしょうか。他宗の僧一人も改宗させることができないようでは・・・・」
「そこだよ。現代の広宣流布は、不幸な民衆一人ひとりを救っていく活動です。辛抱強く、一対一で、日蓮大聖人の真の仏法を説き、納得させて、一人が一人を救っていく以外に方法はない。これが創価学会の使命とするところの実践活動です。
では、なぜ、ぼくが青年部に法論闘争を許しているのかと、君たちは思うだろう。それは君たちのためなのだ。君たちに、日蓮大聖人の仏法が、いかに正統で、すごいものかということを、わからせたいためです。
そうじゃないか。ぼくが、いくら真の仏法のすごさを説いても、君たちが疑っていたら仕方がない。実際に他宗と比較してみれば一目瞭然となる。それには、法論を、ちょっとでも挑んでみれば、すぐわかることだ。法論闘争は、君たちの信心を強固にするために許しているんです」
事実、散発的な法論闘争が、随所でいくら行われても、他宗の僧侶や幹部は、内心の狼狽はともかく、世間的には微動だにもしなかった。
青年部の有志たちは、青年らしいため息をついて、現代の宗教の醜態を知り、日蓮大聖人の仏法の偉大さを、いよいよ知るのであった。
ところが、1954年(昭和29年)頃になると、活発な折伏活動が全国にわたって展開されるに及び、他宗の寺の檀家のなかで、離檀する人が続出するという現象が各地に起きた。地方の、ある寺では、年間30軒の檀家が、創価学会に入会して寺を離れていった。もし、この事態が続くものとすると、数年経たないうちに、寺の経営は成り立たなくなることが自明である。
他宗の住職たちは騒ぎ出した。宗教上の問題というより、まず生活が脅かされたからである。彼らは、墓地への埋葬を拒否するという挙に出たために、それが法律問題となった。さらに、彼らは地方の新聞に訴えて、中傷を創価学会に加えたのである。
彼らは、宗教としての建前上、檀徒の改宗離檀の問題を、さすがに生活基盤の侵害としては公言できなかった。
そこで彼らは、宗教団体を管轄する文部省に、創価学会が暴力的宗教団体ででもあるかのように、訴えたのである。
文部省宗務課は、各府県に連絡して実態調査を始めなければならなかった。創価学会の活動が、果たして宗教法人法第81条にある「公共の福祉を害する」にあたるかどうかを問題としたのである。
今日からすれば、笑うべきことであるが、当時、忽然と社会に頭角を現し始めた創価学会は、全くの誤解と曲解による敵意につつまれていたといってよい。
たとえば、ある新聞に、「信仰相談」という欄があり、週3回、投稿質問に対し、回答を載せていた。4月下旬ごろから、しばしば、創価学会に対する一方的な中傷を取り上げ、学会の指導は、すべて迷信の妄想などと回答していた。
回答者は、老子の思想を基調とした、宗教的な小さな団体を主宰する人物であった。彼は、日蓮大聖人の仏法を研究した痕跡すらない男であったが、新聞の回答者としての客観的地位を利用して、あらゆる誹謗を続けていた。彼自身も、既に折伏を受け、感情的な反発を回答に流し込んでいたのである。
青年部の有志は、これを黙視することはできなかった。直ちに新聞社と回答者に、直接、抗議し、回答者と法論の末、今後、創価学会を迷信、邪教呼ばわりしないことを約させ、一札を取った。しかし、回答者は、露骨な敵意を、その後も改めることはなかった。
また、地方の新聞のなかには、8月の夏季地方指導での折伏をきっかけに、無認識な批判をでかでかと掲げて中傷するものが出てきた。9月になると、ある新聞が、3面トップに大きく中傷記事を載せたのをはじめ、やがて全国紙も学会のことを取り上げ、批判するようになった。
さらに宗教団体の機関紙でも、大々的に創価学会を批判しだした。ある宗派では、9月5日、僧百数十人を集めて、創価学会対策の会合を開いた。そして「創価学会の妄説に惑うな」と大きな見出しを付けた機関紙の臨時増刊号を発行して、同派の全寺院に配布したのである。
こうした事態に対して、戸田城聖は、泰然自若として、笑って言うのであった。
「いよいよ御書に説かれた道門増上慢が出始めたところだよ。つまり三類の強敵のうち、第二類の道門増上慢が約束通り出てきただけの話だ。
これまでは、第一類の俗衆増上慢といって、家庭や職場や、知人、友人などからの中傷批判であった。そのなかで諸君は立派に信心を貫いてきたわけです。
今度は、他宗の僧や新聞が騒ぎ始めたところだ。何も驚くことはない。われわれの広宣流布の活動の途上で、来るべきものが、当然、来たというだけだ。これはむしろ喜ぶべきことです」
批判中傷は、喜ぶべきことだと聞かされた会員たちは、キョトンとしていた。
<続く>
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