戸田城聖は、この「生命論」と題する論文を、ここまで書き上げるのに、
ほぼ一週間の日を過ごしてしまった。
彼は、多忙のため、毎夜続けて書くわけにはいかなかったのである。

 昼間は会社での戦いがあった。出版の仕事も、
この時勢では少しの油断もならない。
まして、会社を休んだり、出勤に遅れたりすることすらできなかった。

・・・・・今夜は、なにがなんでも書き上げるぞ。
彼は心で決意した。戸外に出て、足を急がせる彼の長身は、やや猫背に見えた。

 戸田が書斎の窓を開け、机の前にどっかと座った時は、はや九時を過ぎていた。
最後の章の「生命の連続」である。

・・・・・生命が永遠であるとしても、その生命が一体、どういう状態で実在していくのか。
いよいよ現実的な問題となってきた。この世に生きている間の生命は、誰にでも解るが、
死後の生命は、どうなっていくのか、これが最大の問題となってくる。

 彼は卑近な疑問や、様々な議論を頭に描きつつ、
現実にはまだ何ひとつ確証のない、死後の生命の問題を書き進めていった。

 まず、最も通俗的な見解・・・生命は子孫に伝わっていくという考えは、まことに噴飯ものである。
自分の生命が、生きている息子に伝わったとすると、
その息子のなかにも、自分の生命は生きていることになる。
では、子孫が絶滅したら、自分もなくなることになる。
地球が滅びて、なくなるような生命なら、永遠などという道理はなかろう。

 戸田は、ここで青年時代に傾倒した、高山樗牛の言葉を、ふと思い出した。
 樗牛は「人の偉大な仕事は後世に残り、その偉大な仕事のなかに、その人はなお生きている」という意味のことを書いている。

 はたして、そうであろうか?
偉大な人間はともかく、凡夫のわれわれや、犬や猫の生命は、
とても永遠の生命などとはいえないものとなってしまう。
永遠の生命は、普遍妥当性をもつものであるはずだ。
およそ名声が後世に残るとは、その人の生命の連続ではない。
かつて生きた人の思い出にすぎない。

 では、霊魂となって永久に生きていくという通俗的な主張は、どうなのか。
生死にかかわらず、生命の実在を信じられない時に、人はさまざまな憶測を逞しくする。
が、死後の生命が霊魂などというものに変わって、永久にフラフラしているとは、子どもでも信じまい。
愚かな論議である。この考え方については、釈迦も涅槃経で徹底的に否定し、一種の邪見としている。

 仏法哲学においても、死後の問題ほど厄介な問題はない。
それこそ、最高の仏法的素養を要する問題であるからだ。
死後の生命を語るにしても、おそらく一般には、誤解と曲解とをもってしか伝わらないであろう。

 戸田城聖は、この問題を最も素朴に、きわめて常識的にあつかうことが、
いまはまず肝要なことだと思った。
かれは、メモにとった経典や御書からのさまざまな文証を、引用することは一切やめた。
そして、誰が聞いても、疑う余地のない確実な事だけを書こうと決めたのである。

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