人生哲学の並木道

 宗教団体である「創価学会」と、「池田大作名誉会長」ほど、マスコミや世間から数々のバッシングを半世紀以上にもわたって受けている団体、個人はいないのではないだろうか。 これだけのバッシングを受けながら、今や世界192か国に日蓮大聖人の仏法を流布し、、SGI(創価学会インターナショナル)は世界宗教として発展を遂げてきている。 私もそのなかの一人の会員として、日蓮大聖人の生命哲学を、師匠である池田名誉会長より日々学ばせていただいている。 「宗教は人間の精神を培い、人間の営み全般に道徳基盤を与える」とは、マハトマ・ガンジーの言葉ですが、まさに宗教哲学なき人生は、羅針盤のない船のようなものです。 このブログの目的は、そうした人生全般にわたる指南を書き記しておく、私の学びのノートです。

苦難にも負けず、たとえ倒れても、断じて立ち上がり、
乗り越え、勝ち越えていくところに、人生の真の幸福があり、喜びがある。

人生は、戦いである。
人生は、挑戦である。
人生は、鍛錬である。
困難を避けて、人生はない。

いかなる試練に直面しようとも、
「さあ戦おう!」
「成長するチャンスだ!」
と勇んで立ち向かっていく、「強い自分」をつくるのが日蓮大聖人の仏法である。

この「戦う魂」を持った人が最後は勝つのだ。

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文化部設置という、この新しい展開に示された戸田先生の構想は、最初から人類の文化活動全般に向けられていた。
それは、人間の幸福の実現をめざす日蓮大聖人の仏法の実践展開として、必然的なことであった。
したがって、文化部の活動は、政治の分野に限られるものではない。
もっと広範な社会的分野における活動が、意図されていたのである。
創価学会の存在を際立たせているものは、日蓮大聖人の仏法の唯一の正統派として、広宣流布を掲げ、立正安国をめざす実践活動に尽きるのである。
この実践活動は即、一人の人間に人間革命をもたらす実戦でもあった。
自らの生命を革命したといっても、社会に生きる一社会人であることには変わりはない。
その一人ひとりが、社会建設の新しい力を発揮していくはずである。
そして、この慈悲の哲理を掲げた運動の波動は波動を呼び、やがて社会のあらゆる分野を潤していくことになるのも確かなことだ。
いかにそれが、遠い道のりに思われようと、他に確実な方途がない以上、確信のあるこの道を、まっしぐらに進むよりほかに使命の完遂はない。
戸田城聖は、広宣流布の遥かなる道程をつぶさに思いつつ、文化部の手塩にかけた要員をもって、社会を覚醒させる第一歩を踏み出したことに、油断のない配慮を、あらためて重ねなければならなかった。

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昭和29年の秋ごろから、戸田先生の思索には、彼をとらえて離さぬ大きな構想があった。
その構想は、彼の頭のなかで、重苦しいまでに膠着して、深く根を張り、
いつか新鮮な芽となって萌え始めていた。

その構想とは、広宣流布の伸展にともなう段階において、
いつかは展開しなければならない新しい展望への実践であった。
彼は、この実践を、今、踏み切るべきか、
それとも先に延ばすかという決断に、自ら迫られていた。

” 時は来ている ”
彼は、ある時、決然と思った。

” いや、次期尚早だ、まだ十八万世帯にすぎぬではないか。慎重を期すべきだ・・・ ”
戸田城聖は、深い思いに沈んだ。

彼は、統監部長に命じて、全国の学会員の詳細な分布図を作成させた。
東京都を中心とした関東地方が、最も色濃く染められていた。
それから東北地方の仙台と秋田、北海道の函館、関西の堺、九州の八女などが、
比較的に学会員の密集地帯であることが判然とした。

それから彼は、前回の全国地方統一選挙の詳細なデータを取り寄せて、
統監部の手によって全国学会員の分布表と照合させてみた。
概略の照合ではあったが、全国数十カ所にわたって丸印がついた。
丸印というのは、その地域で、もしも、学会員のなかで適当な人物が地方選挙に立候補し、その人物のために、その地域の学会員が応援したとしたら、
当選圏に入る可能性を含む箇所のことであった。
このような地域が、いつかできていたのである。
状況はまさに、彼に決断を、ひそかに迫っているといってよかった。

広宣流布は、創価学会の会員の拡大だけを意味するものではない。
御本尊を受持して信心に励んだ人は、
まず、人間として自己自身を革命するのは当然のことだ。
革命された個人は、自己の宿命をも変え、家庭をも革新する。
このような個々人の集団というものは、地域社会にも、一つの根本的な変革をもたらすはずである。
いや、地域社会ばかりではない。
それらの個々人は、あらゆる社会分野に英知の光を放ち、変革の発芽をもたらしていくであろう。

政治の分野でも、経済活動の分野でも、生産活動の部門でも、教育や文化や、科学、哲学の分野でも、自らの生命を革命した、わが学会員の日々の活動というものは、その才能を十二分に発揮した蘇生の力となるにちがいない。
それは、社会に大きな波動を与え、やがては新世紀への斬新な潮流となって、
来るべき人類の宿命の転換に偉大な貢献を果たす時が来よう。
これが妙法の広宣流布の活動というものだと、戸田城聖は、心に期していた。

彼は、しばしば、このような展望を、率直に人びとに語ったが、
聞く人は、それを、ただ夢のように聞いていた。

だが、彼が会長に就任して、本格的な広宣流布の活動を始めてから、
わずか4年にして、彼の展望の若芽が、すでに萌え始めていたのである。

そこで戸田は、まず、1954年(昭和29年)11月22日、文化部の設置を発表した。
戸田は、さまざまなデータを検討し、構想を練った。
そして、その構想の若芽を放置して枯らすことなく、育ててみようと、彼は決意したのである。
厳密な調査が進むと、創価学会員の全国分布図の上に、丸印は四十カ所余りにも達した。
意外な数である。
「ほう、こんなにあったか。あとは人の問題だな。私利私欲に目もくれない高潔な人材がいればいいわけだ」

活躍の場はある。しかし、人がいない。
文化部の前途は、まことに暗澹たるものだ。

人選の作業は、厳正な比較対照にカギがある。
私心や感情を去って、あくまでも目的に適った候補者は誰だろうと考える時、
幾人もの候補者を比較しているうちに、やがて適任者が浮かび上がってくる。
事は急を要した。
30年の4月に入れば、統一地方選挙が始まる。

各地域における人選も徐々に固まり、54人の文化部員の任命が、
昭和30年2月9日夜、本部2階広間で行われた。

新たな展開である。
戸田城聖は、まだ力は未知数の54人の文化部員を前にして、その出立を激励した。
言葉は短かったが、彼の万感が込められていた。

「真実の仏法を実践する人は、その資質を活かし、必然的に、社会にその翼を伸ばすことになる。いよいよ時が来たんです。諸君は、妙法を胸に抱きしめた文化部員であることを、いつ、いかなるところにあっても、忘れてはなりません。民衆のなかに生き、民衆のために戦い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。
 名聞名利を捨て去った真の政治家の出現を、現代の民衆は渇望しているんだ。諸君こそ、やがて、この要望に応え得る人材だと、私は諸君を信頼している。立派に戦いなさい。私は、何があっても応援しよう。今後、どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生き抜いていきなさい。ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!」

新しい分野に巣立つ54人の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。
それは、激励とも思われたが、また、新しい門出への惜別の言葉とも響いた。
彼らは、二か月先に迫る初陣を思い、不安と焦慮のなかにあった。
しかし、戸田が、これまで厳愛を持って自分たちを育んでくれたのは、
「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(御書1451p)であったことを、
しみじみと悟のであった。
彼らは、断じて戸田の期待にこたえようと、こぶしを握り締めて心に誓ったのである。
そして、勇んで厳冬の街に出ていった。

それから一カ月過ぎた3月8日、文化部員13人の追加任命があった。
これは、現職の教育者や、経済人で、長年にわたって、戸田の膝下で薫陶を受けてきた幹部たちであった。
第二次の文化部員の任命は、教育界や経済界に対する、戸田城聖の最初の布石といってよかった。

もともと広宣流布の活動は、宗教革命を基本として、それによって、広く人類社会に貢献する活動である。
日蓮大聖人の仏法が、行き詰った現実の社会を見事に蘇生させることを目的とする以上、
この宗教活動が、いつか社会化していくことは必然の道程であった。
社会の各分野で活躍する人材を輩出していくという戸田城聖の構想は、
水滸会や身近にいる幹部との会話で、しばしば語られていたが、
政治改革は、未聞の活動領域であっただけに、現実の問題として認識する人は、
ほとんどいなかったといってよい。
戸田の壮大な構想を耳にしても、心地よいユートピアの夢物語として、
歓喜するにすぎなかった。

そのなかで、師弟不二の道程を着々と歩んできていた池田先生だけが、戸田の予言的展望を脳裏に刻んで、秘められた理想を現実化するための、うかがい知れぬ多くの心労を、戸田とともに分かち合っていたのである。
構想が未聞であっただけに、辛労の質もまた未聞であった。

文化部の活動に踏み出した、この最初の一歩は、まさに歴史的にも、画期的な第一歩であったといってよい。

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創価学会が、どうして、ここまで発展することができたのか。
その要因の一つは、常に青年を大切にし、
青年を前面に押し出すことによって、育ててきたからだ。

時代は、どんどん変わっていく。
信心という根本は、決して変わってはいけないが、
運営の仕方や、感覚というものは、時代とともに変わるものだ。
学会は、その時代感覚を、
青年から吸収し、先取りして、新しい前進の活力を得てきた。

壮年や婦人は、ともすれば、これまで自分が行ってきたやり方に固執し、
それを見なおそうとはしないものだ。
しかし、それでは、時代の変化についていけなくなってしまう。

社会の流れや時代感覚は、青年から学んでいく以外にない。
その意味からも、男子部や女子部が、壮年や婦人にも、
どんどん意見を言える学会でなくてはならない。

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いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、
”もう駄目だ” とあきらめてしまう。
しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、
もう少しで、それを乗り越えられるところまできているのです。

闇が深ければ深いほど、暁は近い。
ゆえに、最後の粘りが、勝利への一念を凝縮した最後の瞬発力が、
人生の勝敗を決していくのです。

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広宣流布とは、一個の人間の人間革命を機軸にした、総体革命です。
仏法の生命尊厳の哲理と慈悲の精神を、
政治、経済、教育、芸術など、あらゆる分野で打ち立て現実化していく作業といえます。

そして、科学も、医学も、法律も、さまざまな制度も、
人間のつくりあげたすべてのものが、人間の幸福のために寄与し、
価値を創造していく社会をつくることが広宣流布の目的です。
したがって、仏法者は現実の社会に対して眼を閉ざしてはならない。
                       (新・人間革命第14巻「智勇」~)
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きょう9月23日は、お彼岸の中日になります。
今年の彼岸入りは9月20日でした、彼岸明けは9月26日になります。

「彼岸」とはもともと「向こう岸」の意味で、
解脱(げだつ)、涅槃(ねはん)、成仏(じょうぶつ)の悟りの境涯を例えたものを「彼岸」といいます。
「彼岸」には、成仏の境涯とともに、そこに至る「修行」や「実践」の意義もあります。
この彼岸に対して、「こちら側の岸」を「此岸(しがん)」といいます。
「此岸」の意味するところは、生死・煩悩の迷いの世界です。

日蓮大聖人も、
「生死の大海には爾前(にぜん)の経は或は筏(いかだ)或は小舟なり、
生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖(いえど)も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとつきがたし」など、彼岸という言葉を使われています。

「彼岸」は「成仏の境涯」のことをいい、先祖供養の意味はありません。
春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではなく、あくまでも日本独特の風習です。
春分・秋分の日は、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈みます。
それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結び付き、
「彼岸会」として定着していったともいわれています。
特に、彼岸に合わせて墓参りをする習慣は、江戸時代以降に根付いたと考えられています。
彼岸の本義に立ち返れば、今日、用いられている先祖供養の意味とは、無関係なものなのです。

日蓮大聖人は、成仏の根源の法である「南無妙法蓮華経」を唱えることで、
この一生のうちに成仏の境涯を開く(彼岸に至る)ことができると教えられています。
そもそも大聖人の仏法では、毎日の勤行・唱題で先祖をはじめ、
自分に関わった故人に対して、追善回向を行っています。
その意味では、私たち学会員にとっては毎日が「常彼岸(じょうひがん)」であり、
自らが行じゆく功徳を、先祖や故人に回らし向けているのです。

そのうえで創価学会は、「随方毘尼(ずいほうびに)」(=仏法の本義にたがわない限り、地域の習俗や時代の風俗に従うべきであるという考え)の観点から、
春と秋の彼岸を一つの節目に、追善の法要を行っています。

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人生には、台風などの自然災害に遭うこともある。
ある意味で、苦難や試練が、次々と押し寄せてくるのが人生といえるかもしれない。
大事なことは、その時にどうしていくか。

”もう、終わりだ・・・”と絶望してしまうのか。
こんなことで負けてたまるか! 必ず乗り越えてみせる!
と決意し、立ち上がることができるのか。

実は、信心することの本当の意味は、
どんな苦しみや逆境にも負けない、
強い自分をつくっていくことにこそある。

(第28巻「勝利島」~)

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結婚とは、ある場合はあこがれの的であり、ある場合は充実した幸福の世界であり、
かと思うと、耐えきれない重荷になることもあるであろう。

結婚というのは、一般的にいえば、もう後戻りのできない出発点である。
いわば、互いの夫婦の絆というところに背水の陣をしいたわけである。
前に進まなければならない。
そして、幸せな家庭を築かなければならない。

結婚によって、生活環境はがらりと変わり、責任は重く、苦労は増える。
それが仮に夫と二人きりのささやかな生活であるにせよ、
共に、一つの家庭経済を取りしきり、食事をこしらえ、掃除や洗濯もしなければならない。
夢見るような甘い幻想しか抱いていなかった人にとっては、
現実はあまりにも厳しく、味気なく思われるかもしれない。
また、夫に対しても、結婚前は美しい面しか見えなかったものが、
何もかもさらけ出された結果、幻滅を覚えることはよくある例である。

結婚は、ある場合には二人の愛の結果であり、恋愛のゴールインかもしれないが、
それはそのまま幸福へのゴールインではない。
何しろ、今まで互いに異なった環境の中で別々に生活してきた男女が、
一つの新しい共同生活を始めるのである。
愛し合っているのだから何事も一致できると思うのは誤りであろう。
毎日毎日、実にたくさんの食い違いがあることを発見して、
驚きの連続なのに違いなかろう。

大は思想や人生観の違いから、小は食べ物の好き嫌いに至るまで、
二人の間にはいろいろな違いがあるものである。
しかも、人間は感情の動物でもあり、ちょっとした食い違いが感情の副作用になって、
思いがけない波乱になってしまうこともある。
もっとも、波乱を恐れてお互いに本心を話し合わず、
不満と不信がうっ積して、ついに破たんに陥るより、
思うことを何でも話し合うことのほうが、はるかによいと思う。

理想的な結婚は、仮に恋愛が ”美しい誤解” であったことに気がついたとしても、
互いにそれをカバーし合い、守り合っていく「理解」と「忍耐」によって、
営まれていくものであろう。

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二人が、家庭という、きわめて現実的な、共通の生活の基盤に立たない間は・・つまり、
単なる恋人同士である段階では、わがままを言っても、
それほど衝突することはないであろう。

しかし、夫婦となると、一方のエゴイズムは、必ず他方の犠牲を伴わずには成り立たない。
したがって夫婦間の愛情は、時には自らを犠牲にしてでも、
相手に尽くしていくものにならざるを得ない。

恋人の場合は、愛というものをきわめて純化された形でとらえるのに対し、
夫婦の、このように現実の生活が厳しくからんだ愛は、
ともすれば、不純なもののように見られやすい。
だが、それは浅い考え方だと、私は思う。
深い愛情に結ばれた夫婦にあっては、家庭生活という現実の一切が、
二人の愛の絆を強め、さらに深めていく複合的な糸となっていると言えまいか。

私が、献身的な愛を強調するのは、押しつけられた自己犠牲を言うのでは決してない。
献身的な愛とは、もはや犠牲ではない。むしろ自己蘇生というべきであろう。

生きがいとは、自分が自分の理性で、そこに理想を見いだし、
自分の主体的な意志で、自己の生命を燃焼させきっていけることである。
それは、あくまでも主体的なものであって、
主体性が失われれば、もはや、そこには生きがいはあり得ないだろう。

生命は、つねに完全燃焼を求めてやまない性向を持っている。
問題はいかなる理想、いかなる対象のために燃焼するかである。

夫と共に、子どものために、近隣のために、
さらに自己の使命の道に生きゆく妻は、女性として、人間として、
最も幸福であり、はた目に見るだけでも、清々しいものである。
                      (池田大作 幸福抄より抜粋)
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兵衛志殿(ひょうへのさかんどの)御返事に云く
「しを(潮)のひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひ(境)には必ず相違することあり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」

(現代語訳)
「潮が干る時と満ちる時、月が出る時と入る時、また夏と秋と冬と春の四季の変わり目には、必ず普段と違うことがあります。凡夫が仏になる時もまた同じことです。必ず三障四魔という障害が出てくるので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くとは、まさにこのことなのです」

この御書は建治元年(1275年)、日蓮大聖人が身延から池上兵衛志宗長に送られたお手紙で、別名を「三障四魔の事」といいます。

このお手紙は、宗長の兄である宗仲が2度目の勘当をされたことで、弟の宗長が動揺して退転することを心配された大聖人は、凡夫が仏になる時は必ず三障四魔が起こることを示され、少しも恐れず信心を貫くよう御指導されているお手紙です。

さらに法華経に合いがたいことを説かれ、合いがたい法華経から離れなければ、わが身が仏になるだけでなく、背いた親をも成仏へ導くことができ、それこそが真の親孝行となると教えられています。

この一節では、潮の干満や季節の変わり目などに、普段と違うことが起こる例を通して、凡夫が仏になる時にも、必ず三障四魔という障害が競い起こってくると仰せです。
そして、その時に仏法の深い原理を知っている賢者は魔を見破り、喜び勇んで打ち破っていき、逆に目先にとらわれた愚者はひるんで退くことを示されて、苦難の時こそ、宿命転換と一生成仏のチャンスであることを教えられています。

池田名誉会長はこの一節を通して、次のように指導されています。
「最大の苦難に直面していた池上兄弟は、この大聖人の厳愛のご指導によって救われ、勇気ある『賢者の信心』を貫くことができた。兄弟を分断し、離間させようとする動きにも乗せられなかった。最後には、二十四年にわたって反対していた父も入信し、一家和楽を勝ち取るのである」

いざという時に、どのような一念を定めて臨むのか。
これが決定的に重要なことです。a1750_000034

法華経勧持品第13の冒頭には、
悪世の衆生は善根が少なく、増上慢が多いことが示されています。
増上慢の者は供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかるとも説かれています。
この増上慢の勢力の中で、正法である法華経を説けば、
おのずと迫害が生ずることは明らかです。

勧持品では、そうしたなかで、法華経の会座に連なった菩薩たちが、
滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても法華経を弘通していくことを誓います。
その誓いが示され、迫害の様相が説かれるのが「勧持品二十行の偈」です。
この中で、迫害者を3種に分類したのが「三類の強敵」です。

それぞれの特徴について経文にもとづいて言えば、
第一の俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)は「無智」の者であり、
第二の道門増上慢(どうもんぞうじょうまん)は「邪智にして心諂曲(てんごく)」の者であり、
第三の僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)は「人間を軽賤(きょうせん)」し「利養に貪著(とんじゃく)」する、「悪心」の者です。
この「無智」「邪智」「悪心」という増上慢の心は、
「無明」の働きによってもたらされます。

無明とは、生命に具わる根源的な無知です。
その無知から煩悩などの暗い衝動が生じ、生命を不幸へと追いやっていく。
特に万物が妙法の当体であることがわからない最も根源的な無知を「元品の無明」といいます。
正法が説かれた時にも、それを信解できず、かえって反発して、正法を破ろうとする働きを生む。ここに無明の恐ろしさがあるのです。

人間自身に潜む元品の無明から第六天の魔王の働きが起こります。
そして、この第六天の魔王に生命を支配された者が法華経の行者に敵対するのです。

「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうと修行する時に、
この第六天の魔王が、それを妨げようとして様々な働きを起こすことが説かれています。
すなわち、その人が成仏すれば多くの人が導かれて仏になり、
やがてこの娑婆世界が浄土に変革される。
娑婆世界を所領とする第六天の魔王は、自分の国土が奪われることを恐れるために、
家来全員に命じて法華経の行者が成仏することを妨げようとする。
それが駄目であれば、今度は法華経の行者の弟子檀那や国土の人々の身に入り、
諌めたり脅したりして妨げようと仕組みます。
それでも駄目なら、第六天の魔王は自ら行動を起こして、
国主の身に入って法華経の行者を脅し、なんとしても成仏を止めようとする、というのです。

二代会長の戸田先生はよく、
「三障四魔のうち死魔までは勝てるが、本当に恐ろしいのは最後の天子魔である」と言われていました。
この天子魔とは第六天の魔王のことです。
そして、「三沢抄」に示されているように、第六天の魔王が、俗衆・道門増上慢の心を操作し、僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)の身に入って、法華経の行者に対する迫害を引き起こすのです。

御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751p)と仰せです。
妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来具わる「元品の法性(がんぽんのほっしょう)」が涌現するのです。
元品の法性とは、仏が悟った万物の究極の真理のことです。

成仏とは、いわば、この法性と無明との戦いに勝つことです。
そして、法華経の行者の折伏行とは、元品の法性を現す行動にほかならないのです。

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友人の影響は、ある時には、親よりも誰よりも強い。
いい友達、向上しようとしている人と付き合えば、自分も向上する。

鉄鋼王カーネギーは、自分のことをこう呼んでいたという。
「自分より優れたものを周りに集めた者」と。
これが彼の人生観であったのだろう。

結局、「いい友人をつくる」には、
「自分がいい友人になる」以外にない。
いい人の周りには、いい人が集まるものです。

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母の真剣な愛は、人生の重大な岐路で、必ず活きる。
困難な時であればあるほど、子に生きる力を与えずにおかない。

偉大な母であるか否かは、
「子どもを思う心」の深さ、大きさで決まる。
本当に大変なときに、子どものために何をしてあげられるかです。

母親が自信をもって、生き生きと人生を歩んでいく。
希望に向かって、朗らかに成長していく。
その輝く姿こそが、子どもに生きる原動力を与え、
子どもの素晴らしい可能性を育む ”大地” となっていくのです。

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一口でいえば、幸・不幸の決め手は、
心の世界が豊かであるかどうかであろう。
生きているかぎり、よりよい自身を求めて、進歩したいものだ。
自分らしく成長し続けるなかに、
充実も、安心も、幸福も、そして若々しく生きる健康法も、
子どもたちへの最高の教育もあるといえよう。
その意味で、幸福は、自分自身の勝利である。
自分で勝ち取るものである。

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本当の幸せは、どこにあるのでしょう。
人は、生きることに疲れると、今いる場所ではない、どこか遠い世界に本当の幸せがあるのでは、と夢見るものです。

しかし、遠い世界に逃れて、自分を縛っていた全てを断ち切ったつもりでも、
ただ一つ逃れられないものがあります。
それは、自分という存在です。
どこに行こうとも、この自分自身からは決して逃れられないのです。

日蓮大聖人の身延での生活をお支えした南条時光の姉に重須殿女房と呼ばれた女性がいます。
石河新兵衛は、日興上人が亡くなるまでの35年間、弟子の育成にいそしまれた重須談所(学問所)を寄進した人物です。
大聖人は、この重須殿女房に教えられます。
「そもそも、地獄と仏は、どこなのかと尋ねてみると、あるいは地獄は地の下にあるという経もあり、あるいは仏は西方にいるという経もあります。しかし、詳しく探ってみると、私たちの身の内にあると説かれているのです。
その通りかと思われる訳は、父を侮り母を疎かにする人は、その人の心のなかに地獄があります。
仏も、私たちの心の中にいるのです。石のなかに火があり、珠の中に宝があるようなものです。
私たち凡夫は、心の中に仏がいるのを知らないでいたのです」(1491p)

仏典では、悪業を積めば、死後に地の底の地獄に堕ちると説いたり、
とりわけ浄土系の経典では、阿弥陀仏の名を唱えれば西方極楽浄土に往生できると説いたりしています。
しかし、仏法の本義に基づけば、恩ある人を裏切る心にこそ地獄があり、
深く妙法を信ずる心にこそ仏がいるのです。

こうした法理自体は、大聖人ご在世当時の仏教の文献にも説かれていますが、
大聖人は、単なる法理の次元ではなく、身命をなげうって妙法を行ずる同志の姿に、ありありと仏の実像を見られていたと拝察されます。

大聖人は、続けて重須殿女房に「不幸は口から出て我が身を破り、幸福は心より出て我が身を飾るのです」(1492p)と教えられます。
不幸も幸福も、それをつくり出すのは、自分自身の心だということです。
重須殿女房の母である上野殿後家尼にも、同じように教えられたことがあります。
「浄土といっても地獄といっても、外にあるのではありません。ただ、私たちの胸の間にあるのです。これを悟るのを仏といい、これに迷うのを凡夫というのです。
これを悟るには法華経しかありません。法華経を持つ者は、地獄即寂光と悟るのです」(1504p)
自身の心が変われば、地獄も寂光土に変わります。
法華経とは、心を変え国土を変えるための教えなのです。

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幸福な社会というのは、母と子が笑顔で暮らせる社会のことではないでしょうか。
もし、悲しみに泣き暮れる母子が多くいるとすれば、その社会には、どこか重大な過ちがあります。

日蓮大聖人は、「今の日本では、子どもは魂を失い、女人は血を吐いて苦しんでいます」と仰せになり、子どもと女性を苦しませる当時の日本社会に憤りをあらわにされています。
大聖人の門下にも、子育てをする母たちがいました。
そのなかには、夫と死別や離別をして、一人で子どもを抱えながら生活に苦闘する母たちもいました。
大聖人は、そうした母たちに、何があろうと負けずに強く生きるのだと、励ましを送り続けられました。

門下に妙一尼という女性がいましたが、その妙一尼は、幕府の弾圧によって領地を奪われ、大聖人の佐渡流罪中に夫を病気で亡くし、病気の子や女の子とともに不遇な生活を強いられていました。
大聖人は、その妙一尼に「法華経を信ずる人は冬のようですが、冬は必ず春となるのです」と、妙法への絶対の確信を教えられます。
また、こうも仰せです。
「信心とは、妻が夫を愛おしむように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子どもを捨てないように、子どもが母から離れないように、法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えることをいうのです」
相手の心の襞に染みいるように信心の真髄を教えられたのです。
夫がいなければ、社会的にも経済的にも恵まれない生活を余儀なくされます。
にもかかわらず、というより、だからこそ、と言うべきでしょう。
こうした女性たちは、師匠のために広布のために、心を尽くし力を尽くしたのでした。

妙一尼は、大切な働き手であった滝王丸という下人を、佐渡にも身延にも遣わして、不自由な生活を送られていた大聖人のお世話をさせています。
大聖人は、その志を、釈尊が過去世に修行していた際の心を越えるものだと激賞されています。

大聖人から「日本第一の法華経の行者の女人」と讃えられた日妙聖人も、夫と離別して幼い娘を育てていた女性です。
鎌倉の大弾圧の際には、苦境にあった弟子たちを献身的に支えています。
女性の身でありながら、佐渡にも身延にも赴いています。
佐渡には、幼い娘と連れ立って行ったと推測されます。
文永9年(1272年)5月といえば、大聖人が流罪されて半年ほどであり、佐渡から生還できるとは考えられていなかった時期です。
何としても師匠に娘を会わせようと、娘を連れて、険しい山を越え海を渡って佐渡を訪ねたのでしょう。
大聖人は、幼いながら母譲りの健気な信心の乙御前を深く慈しまれました。
翌年の文永10年(1273年)11月に送られたお手紙では、あて名を「乙御前の母」とされて、「乙御前は、どのように成長されたのでしょう。あなたが法華経に尽くされる奉公の功徳は、娘の乙御前の生命を幸いで飾ることでしょう」と仰せです。
さらに建治元年(1275年)8月のお手紙では、あて名を「乙御前へ」と記されて「乙御前は、さぞ大人びてきたことでしょう。どれほど賢くなったでしょう」と結ばれ、その成長を殊のほか喜ばれています。

大聖人は、このお手紙で日妙聖人についてこう仰せです。
「女人は夫を魂とします。夫がなければ女人の魂はないのと同じです。夫のある女人でさえ世の中を渡るのが難しいのに、魂と頼む夫もなくて世を渡られているあなたは、夫ある女人にも勝って、しっかりした信心をしていらっしゃいます」
大聖人は、このように日妙聖人の信心を十分に認められたうえで、さらに強い信心を奮い起して諸天の加護を現すよう励まされます。
その際、「例としては、他を引くに及びません。この日蓮を日本中の人々が害しようとしたが、法華経を信ずる心のゆえに諸天から守護されたのです」と、すべての大難をはねのけた師匠の信心に続くよう促されるのです。

このころ日妙聖人に再婚話が持ち上がっていたようですが、大聖人は「どのような男を夫とされても、法華経に敵対するならば従ってはなりません」と戒められ、「いよいよ強盛の信心をしていきなさい」と重ねて励まされています。

嵐に荒れ狂う海のような社会でした。
強く強く信心の一念を持たなければ、宿命の波に押し流されてしまいます。
強く生き抜くことが幸福であり、強く戦い抜くことが勝利である。大聖人は、その信心を徹して教えられたのでした。

日妙聖人と娘の乙御前が、その後、どのような人生を生きたかは、定かではありません。
しかし、大聖人のお手紙を拝すると、師匠の励ましを胸に抱いて、烈風にも笑顔で生き抜いた母子の笑顔が浮かんできます。

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6日の午前3時過ぎ、突然の停電と同時に、
なんとも言えない不気味な地鳴りの音とともに、家が大きく揺れ出した。
家中のあちこちでものが落ちる音や、割れる音などが聞こえ、
真っ暗闇の中で、ただじっと揺れが収まるのを待つしかなかった。
ようやく揺れが収まると、懐中電灯を真っ暗闇の中で探すがなかなか見つからない。
二階の窓から外を見ると、漆黒の闇夜が広がっており、
外に飛び出した人たちの声が聞こえる。
ようやくの思いで懐中電灯を見つけ、一回の居間に降りてみると、
妻と子どもたちが体を寄せ合っている無事な姿を見て一安心する。
妻も、子どもたちもスマフォのライトをつけて家の中を点検してみる。
どうやら、我が家は大きな被害がなく、倒れた家具類もなかったが、
食器棚の中のコップが一つ割れただけであった。
外に出て様子を見てみると、津波を心配して高台に逃げていく人たちもいた。
娘が、スマフォから流れる情報で、震源地は安平(あびら)らしいことがわかり、
震源地が内陸なので、津波の心配はないと思っていると、
市の防災放送が流れ、津波の心配はないとの情報が入る。
空を見上げると、どこも赤くなっていないので、近所での火災も発生していそうもない、
空を見上げて、ふと気付いたことは、星がなんときれいなんだろうかということだった。
北海道内がほとんど停電になったため、家の庭で見上げる星空が、こんなにきれいだったとはと、しばし感心してしまう。
そのためか、パニックにならずつとめて冷静な行動をとることができた。
のんびりし過ぎたせいか、昼近くに近所のコンビニに行ってみると、棚はほとんどが空になっていて、買えるものが無くなっていたことだ。
近くの大型スーパーも、店内には入れず、入口に長蛇の列ができており、店頭で販売している様子を見て、あらためて大きな災害になったんだと認識させられる。
停電のため、テレビのニュースを見ることもできず、
スマフォが唯一の情報源となって、道内の他の地域の被害情報を知るにつけ、
深刻な災害となっていることを改めて知る。
私の住んでいる苫小牧市は、震度5強だったというが、
ここからそれほど遠くない厚真町では、犠牲になられた方々が30名を越している。
長く続いた停電も徐々に解消され、我が家に電気が来たのは昨日のこと。
電気が来たときには、思わず家族で拍手が沸いた。

ふと、私の脳裏に新・人間革命第2巻・錬磨の章のある一節が思い浮かんできた。
その「錬磨の章」には、昭和34年の伊勢湾台風の折、
当時総務だった池田先生が被災地に駆け付け、被災者の方たちを激励した時のことだ。

「人間の真価は、最も大変な苦しい時に、どう生きたかによって決まります。さらに勇気の人、希望の人がいれば、周囲の人も元気が出てきます。
 学会員である皆さん方には、ご家族をはじめ、近隣の友を励まし、勇気づけていく使命があるんです。すべてを信心の飛躍台として、見事に変毒為薬してください。そして、信心の勝利の実証を示し切っていただきたい。」

人間の真価は、最も大変な苦しい時に、どう生きたかによって決まる。
私自身にとって、この先生の激励の言葉は、「嗚呼、先生の弟子であってよかった」と、
思わずにはいられない、感謝の気持ちでいっぱいの災害日となった。

それは、わずか数分の演説であった。

1957年(昭和32年9月8日)、横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」。
戸田第二代会長は、5万人の聴衆に訴えた。

戸田先生

「・・・・われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります・・・・」

核兵器を絶対悪と断じたこの宣言は、世界に広がる創価学会の平和運動の原点となった。
当時世界では、東西冷戦の激化に伴う、熾烈な核軍拡競争が行われていた。
核戦争による世界の破滅が、現実的な脅威として認識されはじめていた。
戸田はこうした世界の動向を見つめつつ、宣言の構想を練っていたのである。
それは生命の尊厳を守る、仏法者としての決意からであった。
戸田は折あるごとに思索を重ねた。
人類の自殺行為ともいうべき核軍拡競争、その愚行を正統化しているものは何か?
それは、核兵器が戦争の抑止力となり、平和が保たれるという核抑止論である。
ではその抑止論をもたらしているものは何か?
それは、核戦争になれば互いに共倒れになるから、戦争はできないという考え方に始まっている。
しかし、これは人間の恐怖のうえに成り立っており、
際限のない核軍拡競争という悪魔の迷路に導くものであり、
その思考自体が、人間精神の悪魔的産物ではないか!
戸田は政治の次元でも、技術的次元でもなく、人間生命の根底の次元から、
核兵器の奥に隠された、生命の魔性という見えざる敵を暴いたのである。
核兵器は人類の生存の権利を脅かす兵器である。
であるならば、核兵器を「絶対悪」と断ずる以外にない。
この思いを戸田は宣言として発表、その思想を世界に広めることを、
将来を担う青年たちへの第一の遺訓としたのである。

世界の民衆の生存を踏みにじる権利が、誰にあると言うのか!
もしあると言うなら、それこそ悪魔ではないか!

死刑制度に絶対反対であった、戸田第二代会長が、
あえて死刑という言葉を使ってまで、どうして「原水爆禁止」を訴えたのか。

池田名誉会長は、随筆 新・人間革命」で、恩師の思いをこう解説している。
「それは、原水爆を保有し、使用したいという人間の己心の魔性それ自体に、朽ちざる楔を打ち込むためであった。
 原水爆を『絶対悪』として断罪する思想を、いわば『防非止悪』の堤防として、人類の胸中深くに打ち立てようとされたのである。
 『生』を守るために、その対極の『死』という言葉で、サタンの魔性の働きを砕きつくさんと・・・。生命厳護という絶対の正義を実現する、信念の行動であったのだ」

戸田会長の真意を、この時、どれだけの聴衆が知りえただろう。
まして当時、世間から、この言葉が顧みられることは少しもなかった。

この時、宣言の思想を全世界に広めるために生涯を捧げようと誓った一人の青年がいた。
青年は、時を待ち時を作り、一歩また一歩と世界に対話を広げ、平和の連帯を結んでいった。
それは平坦な道ではなく、むしろ茨の道であったといってよい。
核廃絶などできるはずがない! 嘲るような冷笑があった。
核兵器の必要性を否定するのか! 悪意の攻撃があった。
しかし、青年は決して屈しなかった。
恩師の遺訓を胸に深く刻み、今日に至るまで平和へのたゆみなき行動を続けてきたのが池田名誉会長です。
原水爆禁止宣言から11年後(1968年)の9月8日に、中国との国交回復を訴える「日中国交正常化提言」を発表。

周恩来総理と
<中国・周恩来総理と>

さらに6年後(1974年)のこの日には「宗教者がなぜ宗教否定の共産主義の国へ行くのか」との批判をものともせず、初のソ連訪問の旅へ出発。ソ連の最高首脳らと率直に語り合い、平和への「人間外交」を繰り広げたのです。

コスイギン
<ソ連・コスイギン首相と>

さらに池田名誉会長は、世界54カ国・地域をめぐる平和旅で、各国の首脳や識者、市民らとの地道な対話で、平和への友情を広げてきました。

池田名誉会長は述懐している。
「あの時、先生は、『いやしくも私の弟子であるならば、私のきょうの声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい!』と鋭く叫ばれた。絶対に忘れることのできない、厳しき遺訓である。
その遺言の通り、私は、先生の平和思想を、堂々と全世界に訴え続けてきた。師の教えを必ず実行する。それが真の弟子の道であるからだ」。

あの原水爆禁止宣言から60年を経た、2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が122カ国・地域の賛成多数により採択された。

青年が命をかけて立ち上がったとき、歴史の流れは大きく変わった。
今求められているのは、その心を継ぐ一人である。

御書(1316p)に
「十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり」と仰せです。
妙の一字とは、妙法の「妙」の字であり、南無妙法蓮華経の「妙」の字です。

法華経二十八品にはさまざまな法理が説かれていますが、
結局のところ、すべては、この「妙」を表現し、教え、伝えるためなのです。
そして、この「妙」を体得した人が仏となるのです。
ゆえに、法華経があらゆる仏の師なのです。

大聖人が末法の衆生のためにあらわされ、弘められた三大秘法の南無妙法蓮華経は、
まさに万人に、この「妙」の力を会得させる大法なのです。
大聖人は、「法華経題目抄」で、
「開の義」「具足円満の義」「蘇生の義」の、いわゆる「妙の三義」を説かれています。

①「妙と申す事は開と云う事なり」(943p)・・・法華経は諸経の蔵を開く鍵であり、この法華経によってこそ諸経が秘めた財(たから)を生かすことができる。

②「妙とは具の義なり具とは円満の義なり(944p)・・・芥子粒のように小さい如意宝珠(にょいほうじゅ)から一切の宝が現れるように、また、太陽の陽光によってあらゆる草花が開花するように、法華経の一つの文字にはあらゆる法と功徳が具わっている。

③「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがえる義なり」(947p)・・・それまで成仏できないとされてきた、いかなる衆生も蘇生させ、必ず成仏させることができる。

妙法は万法を具した根源的にして円満な法であり(具足円満の義)、すべてのものの本来の価値を開く力がある(開の義)。
ゆえに、いかに行き詰った境遇にある人をも蘇生させ、成仏させていく力がある(蘇生の義)のです。
私たちは南無妙法蓮華経の題目を自行化他にわたって唱えることで、
この「妙の一字」の力を自身の胸中に具体的に現すことができます。
なんと素晴らしい仏法でしょうか。
この「妙の一字」を体得するために、自分自身の仏道修行があります。
広宣流布の活動もその一点にあります。
広宣流布へ不惜身命の覚悟で進むとき、私たちは「妙の一字」の功徳を、
全生命で受け切っていくことができるのです。

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日本の社会は、人の評価をする時に、まず、欠点をあげる傾向が強いようです。
しかも、人のミスや欠点は、長く記憶に残るもの。
その人を評価する時に、まず思い浮かべるのは、頑張ったことや長所にくらべて、ミスや欠点のほうが多いように思えます。
マイナスを探すのは名人でも、プラスを見つけるのは苦手。そんな人が多い。
そんな人ばかりでは、同僚や部下、周囲にやる気を起こす人が減ってしまうように思えます。

日蓮大聖人が、弟子の一人に宛てたお手紙に、「法華経の功徳はほめ称えれば称えるほど功徳が一層増す」と仰せです。
法華経は、すべての人をどこまでも幸福にする教えです。
人間の豊かな可能性を教え、根本の自信を与え、挑戦する勇気を起させ、必ず勝利の軌道へと導く教えです。
その法華経は、「讃(ほ)むる言(ことば)」に満ち満ちています。
あらゆる角度から、その素晴らしさを称えています。
良いところを、良いと「ほめる」ことによって、その良さが一段と発揮されるのです。
ほめることが大切なのです。

「金は焼いて精錬すれば色がさらに輝きを増し、剣は磨げばさらに鋭くなる。法華経の功徳はほめ称えれば称えるほど功徳が一層増す」と、妙密上人御消息(1241p)。

とはいえ、人をほめる、というのは、簡単そうに思えて、実はとても難しいものです。
しかも、同僚や仲間、親しい友人、妻や夫や子供など、近しい存在であればあるほど、難しさが増すようです。
その人ならではの良さを凝縮した温かさにあふれる言葉で、ほめることができれば、どれほど皆が活気づくかしれません。
人をほめることができない理由はいろいろあります。
大抵は、相手の良さに気付けない”鈍さ”、良さに気づいても、欠点をなじってしまう”くせ”などかもしれません。
それはいわば心の狭さです。
たとえば、上司が部下に、「きょうは張り切っているね」「よく頑張った」と、声をかける。
こびたり、お世辞や、イヤミのあるほめ言葉では寒々しい。
自然と心からわきあがる「ほめる言葉」は、さわやかで、心地よいもの。
とはいえ、いつも、しかめッ面で接している人に、思っていても、いまさら照れくさくて言えない。
そんな心の壁もあるかもしれません。

そんな些細な、引っかかりを、少しばかりの勇気を奮い起して打ち破っていくことが、心を大きくしていく第一歩なのではないかと思います。
とにかく相手のいいところを見つけて、ほめる。
もちろん、声に出して。
そうすれば周囲は和やかに、活気づいていく。
こちらの境涯だって拡大していくはずです。

池田名誉会長は語っています。
「人をほめ称えることは、温かな人間性の発露である」と。

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いかなる逆境にあっても、希望がある限り、破れることは断じてない。
希望がある限り、人間は前進し続けることが可能なのだ。

日蓮大聖人の仏法は「希望の宗教」です。
あらゆる苦難を乗り越え、いかなる障魔も打ち砕いていく無限の力が、わが胸中にあることを洞察した「大哲学」である。
そして、その無限の力を一人の人間が現していく「実践と実証」が明らかにされている。
それゆえに、万人の胸中に「希望」を絶えず生み出してゆける力強い宗教なのだ。

この希望の哲学と実践と実証が余すところなく示されているのが「御書」にほかなりません。
御書は、私たちに、無限の勇気と希望を湧きあがらせてくれる光源です。
日蓮大聖人が命に及ぶ大闘争の中で、門下のため、全人類のために、綴り残してくださった「希望の経典」です。

二代会長戸田先生は言われた。
「大聖人は、大病大難を受けられながら、我々に、自分の運命をそこから切り開いていけ!と、教えてくださっているのです。ありがたいことだ。私もその命がけの教育を、大聖人から受けてきました」と。

蓮祖の魂がほとばしるこの御書を、私たちは一行でも二行でも身をもって拝読してまいりたい。「御書根本」「実践の教学」こそ創価学会の伝統です。
御本仏の大生命の律動を拝する思いで、御書を学んでいきたい。

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